三帖和讃のタグまとめ

三帖和讃」のタグがついている新着記事と人気記事をまとめました。エキサイトブログには三帖和讃に関連するブログ(日記、記録、写真、レビュー、噂、まとめ)がたくさん投稿されています。

「三帖和讃」タグの記事(22)

  1. 少しばかりで了解は出来ぬ - 仏からの道

    少しばかりで了解は出来ぬ

      四五、秀存師ある時、「真心徹致するひとは、  金剛心なりければ、三品の懺悔するひとと、  ひとしと宗師はのたまえり」とある和讃の御意を尋ね給いければ、  師はやや暫らく黙し給いて後、  智慧第一の舍利仏でさえ、四十年の間聞いても分らぬ仏法を、  少しばかり聞いて解了しようとは、無理なことじゃ。   とのたまいければ、秀存師はただ、ヘイと云いて退出ありしを、  傍見しまいらせしと、栗尾太助...

  2. 仏が仏になる - 仏からの道

    仏が仏になる

      釈迦弥陀は慈悲の父母  種種に善巧方便し  われらが無上の信心を  発起せしめたまいけり  (高僧和讃) わたしがわたしの持物だと思っている肉体とわたしが"わたし"だと思っている心、それはちょうど、肉体という仏壇にわたしという"本尊"が安置されているようなものなのでしょう。肉体が滅んでも本尊である"わたし"は死なない。あるいは死後仏になると思っている。"わたし"が仏になるなんて思うから邪...

  3. 観念成就のさとり - 仏からの道

    観念成就のさとり

      十方無量の諸仏の  証誠護念のみことにて  自力の大菩提心の  かなわぬほどはしりぬべし  三恒河沙の諸仏の  出世のみもとにありしとき  大菩提心おこせども  自力かなわで流転せり  (正像末和讃)  煩悩具足の身をもって、すでにさとりをひらくということ。  この条、もってのほかのことにそうろう。  即身成仏は真言秘教の本意、三密行業の証果なり。  六根清浄はまた法華一乗の所説、四安楽...

  4. 事実に立つ - 仏からの道

    事実に立つ

      浄土真宗に帰すれども  真実の心はありがたし  虚仮不実のわが身にて  清浄の心もさらになし  (正像末和讃) 文意をわずかに窺えば、「尊いことに、浄土真実の教えに遇えばこそ、この身のどこにも真実の心などないと教えていただきました。世間を生きる身ゆえにそれらしくはしていますが、心の中の生活は浅ましくも惨めなものです。もとより仏になるための清浄心もありませんので、如来よりいただいた真心で往...

  5. 機の深信 - 仏からの道

    機の深信

      弥陀成仏のこのかたは  いまに十劫をへたまえり  法身の光輪きわもなく  世の盲冥をてらすなり  (浄土和讃)  我々は自分自身を知らぬ。  自分自身を知ることが出来ぬ。  外の方は一応知識を持つ。  月の世界まで旅行することが出来るまで人間の知識は進んだが、  自分自身を知る眼は全く閉じている。  これは、阿弥陀如来の御光に照らされて  自分自身というものを見るところの智慧を始めて与え...

  6. 現生十種の益(続) - 仏からの道

    現生十種の益(続)

      五濁悪世の衆生の  選択本願信ずれば  不可称不可説不可思議の  功徳は行者の身にみてり  南無阿弥陀仏をとけるには  衆善海水のごとくなり  かの清浄の善身にえたり  ひとしく衆生に回向せん  (高僧和讃)  金剛の真心を獲得すれば、  横に五趣八難の道を超え、  かならず現生に十種の益を獲。  (教行信証・信巻) 信心とは仏のお心をいただくことです。いただくとは仏のお心がわたしの内面...

  7. 浄土は心の世界である - 仏からの道

    浄土は心の世界である

      弥陀智願の広海に  凡夫善悪の心水も  帰入しぬればすなわちに  大悲心とぞ転ずなる  ※「転ずる」の左訓  悪の心、善となるを転ずるなりというなり。  (正像末和讃)  如来の回向南無阿弥陀仏によって自己を照らす眼を開かせて頂くのである。  そうすると、そこに浄土が心の前に開ける。浄土は心の世界である。  我等の心の無明を照らして下さるものである。  心が自由に眼を開いて来るなら、煩悩...

  8. 信心のご利益 - 仏からの道

    信心のご利益

      無碍光の利益より  威徳広大の信をえて  かならず煩悩のこおりとけ  すなわち菩提のみずとなる  (高僧和讃)  たとい我、仏を得んに、  十方無量不可思議の諸仏世界の衆生の類、  我が光明を蒙りてその身に触れん者、  身心柔軟にして、人天に超過せん。  もし爾らずんば、正覚を取らじ。  (三十三願・触光柔軟の願)  身体があるから煩悩がある。  煩悩具足であるが、その煩悩が起って来る傍...

  9. 願作仏心と度衆生心 - 仏からの道

    願作仏心と度衆生心

      浄土の大菩提心は  願作仏心をすすめしむ  すなわち願作仏心を  度衆生心となづけたり  ※「願作仏心」の左訓  他力の菩提心なり。  極楽に生まれて仏とならんと願え、  とすすめたまえるこころなり。  弥陀の悲願を深く信じて仏にならんと願う心を  菩提心と申すなり。  (正像末和讃)  願作仏の心はこれ   度衆生のこころなり   度衆生の心はこれ   利他真実の信心なり  (高僧和讃...

  10. 還相もまた"現在"にあり - 仏からの道

    還相もまた"現在"にあり

      一切の有情は、みなもって世々生々の父母兄弟なり。  いずれもいずれも、この順次生に仏になりて、たすけそうろうべきなり。  (歎異抄・第五章)  南無阿弥陀仏の回向の  恩徳広大不思議にて  往相回向の利益には  還相回向に回入せり  如来の回向に帰入して  願作仏心をうるひとは  自力の回向をすてはてて  利益有情はきわもなし  (正像末和讃)  往相と還相と、往相は現在にあり、還相は未...

  11. 歎異抄・第四章の読み方 - 仏からの道

    歎異抄・第四章の読み方

      一 慈悲に①聖道・②浄土のかわりめあり。  ①聖道の慈悲というは、ものをあわれみ、かなしみ、はぐくむなり。  しかれども、おもうがごとくたすけとぐること、きわめてありがたし。  ②浄土の慈悲というは、念仏して、いそぎ仏になりて、  大慈大悲心をもって、おもうがごとく衆生を利益するをいうべきなり。  ①今生に、いかに、いとおし不便とおもうとも、  存知のごとくたすけがたければ、この慈悲始終...

  12. 功徳は十方にみちたまう - 仏からの道

    功徳は十方にみちたまう

      無慚無愧のこの身にて  まことのこころはなけれども  弥陀の回向の御名なれば  功徳は十方にみちたまう  (悲歎述懐和讃) 「無慚無愧のこの身にて、まことのこころはなけれども」とは懺悔である。「弥陀の回向の御名なれば、功徳は十方にみちたまう」とは讃嘆である。心が見えることを智慧という。救われない身と知るから仏にすがる。すがる一念に救われるから、すがる心にして救うのが仏の御はからいである。...

  13. 三宝にはなれたてまつる - 仏からの道

    三宝にはなれたてまつる

      罪福信ずる行者は   仏智の不思議をうたがいて   疑城胎宮にとどまれば   三宝にはなれたてまつる   (正像末和讃) 仏智疑惑和讃の第三首です。どういうことが書かれているか。仏智不思議は経験できるが、罪福信ずる行者はまだ仏智不思議を経験したことがない。だから、罪福信じる行者の信仰は道徳や哲学のレベルにとどまって信仰に達していない。それを「疑城胎宮」という、と。仏法聴聞していても仏を経...

  14. 仏智疑う罪深し - 仏からの道

    仏智疑う罪深し

      22  仏智の不思議を疑惑して  罪福信じ善本を  修して浄土をねがうをば  胎生というとときたまう  23  仏智うたがうつみふかし  この心おもいしるならば  くゆるこころをむねとして  仏智の不思議をたのむべし  已上二十三首  仏(智)不思議の弥陀の御ちかいをうたがう  つみとがをしらせんとあらわせるなり  愚禿善信作 二十三首ある「仏智疑惑和讃」です。自力の信を他力の信と誤解し...

  15. 自分の境遇を疑う - 仏からの道

    自分の境遇を疑う

      真宗念仏ききえつつ  一念無疑なるをこそ   希有最勝人とほめ   正念をうとはさだめたれ  (高僧和讃) 「なぜ、わたしだけがこんな苦しみを受けなくてはならないのか」と自分の境遇を疑う。すっかり可哀相な被害者になっているが、疑いの心の根底には誰もが縛られている「執着」がある。自分の心への執着が苦しみをつくる。そのことを知ることが仏法の目的であり、それを知った人は「一念無疑」にて、「希有...

  16. 「転ず」ということ - 仏からの道

    「転ず」ということ

      弥陀智願の広海に  凡夫善悪の心水も  帰入しぬればすなわちに  大悲心とぞ転ずなる  (正像末和讃)  本願力にあいぬれば  むなしくすぐるひとぞなき  功徳の宝海みちみちて  煩悩の濁水へだてなし  (高僧和讃) 親鸞は「転ず」に「悪の心、善となるを転ずるなりといふなり」と左訓している。「悪の心」とは凡夫の心であり「善」は仏のお心です。信心をいただくとは「凡夫善悪の心水」が「大悲心と...

  17. 悪人正機説 (続) - 仏からの道

    悪人正機説 (続)

      ③煩悩具足のわれらは、いずれの行にても、  生死をはなるることあるべからざるをあわれみたまいて、  願をおこしたまう本意、悪人成仏のためなれば、  他力をたのみたてまつる悪人、もっとも往生の正因なり。  (歎異抄・第3章) 煩悩が見えることを「智慧」といいます。眼は眼を見ない。煩悩は煩悩を見ない。「煩悩具足のわれら」は悲しいかな、「煩悩具足のわれら」と気づかない。そのことを「いずれの行に...

  18. これなりで御座ります - 仏からの道

    これなりで御座ります

      九四、美濃田代町のおせき、水手桶さげて、御庭前へ参りたるとき、  師俄かに、おせき、極楽参りはどうじゃ。 と仰せらる。  おせきは、はい、これなりで御座りますと、直ちに申し上げたれば、  仰せに。おせきはよく聴聞したなあ。  (香樹院語録) 美濃田代町のおせきの「はい、これなりで御座ります」は懺悔である。わたしの全否定である。懺悔は機の深信であるから他力の信である。救われない自分を見せて...

  19. 阿弥陀様の御養育 - 仏からの道

    阿弥陀様の御養育

      一四一、仰せられ候。阿弥陀様の御養育と云うは、  親が子を抱きづめにして居るように、  何処に居っても見て居ってやるから、  危げなしに我をたのめ、と仰せらるる御念力に、  つなぎ付けられたことじゃ。  (香樹院語録)     この法語、聞き手がいない。香樹院師の素直な宗教感情の表白です。どこにいても、どんなときも、親に見守られているという安心が子を一人立ちさせる。仏の心といつもつながっ...

  20. 弥陀に待たれたる身なり - 仏からの道

    弥陀に待たれたる身なり

      三、ある人、私はいかほど聴聞致しましても、  どうも、つかまえ所が御座りませぬ、と申し上げたれば、  仰せに。 そうであろう。  おれは、つかまえられぬように、云うて居るのじゃ。        二一六、未だ疑いはれねども、  聴聞して疑いはれたいと思うものは、  弥陀に待たれたる身なり。  余所から帰る子をまつは親なり。子は待たるるなり。  他人はまたぬが親は早う帰ればよいと待つ。  帰...

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