CHINAのタグまとめ (77件)

CHINAのタグがついている新着記事と人気記事をまとめました。エキサイトブログにはCHINAに関連するブログ(日記、記録、写真、レビュー、噂、まとめ)がたくさん投稿されています。
by Out of Far East

朱徳は毛沢東と彼が演説した東固での一般的大衆集会を回想した。毛沢東は「われわれの力はまだ弱くて小さいが、火花も炎のように燃え上がることができるから、われわれには無限の将来がある」と演説し、「一定の時期に、一定の諸条件がもとで、人民の権力は地域を広げ、大都市から最後には全中国を解放するだろう」といつものように革命の戦略と戦術を説明した。これは誰でも理解できる実際的な戦略であるが、大陸の未知の未...

by Out of Far East

東固の約25マイル南に城壁をめぐらした興国という大きな町がある。2、3週間後には紅軍の手中に落ち、東固といっしょになって「東固―興国地方ソヴェト区」を結成した。 東固にはすでに小さな病院が建てられていたが、紅軍の病人や負傷者、疲労しきった人たちまで収容できないので、農家の家に招かれて世話になることになった。この高い台地で紅軍は休養をとり、入浴もした。しらみを駆除したり、傷ついた足の手当をし、...

by Out of Far East

旧正月がきた。家ごとに正月を祝う赤い紙がきらめき、料理店や金持ちの家からは音楽が鳴り響いていた。南江西の瑞金という小さな県城では、ちょうど江西省軍一個連隊が帰ってきて、「朱毛匪」の大部分を皆殺しにして、敗残兵は福建省境の向こうに追っ払ったと報告していた。 この大手柄の褒美として、街の要人たちは連隊のために正月の大宴会を開いた。建物の中に準備された長いテーブルの上には赤いろうそくがいくつも輝き...

by Out of Far East

朱徳と毛沢東は四千人の兵を率いて敵の封鎖を突破した。井岡山の山麓から外界へ通じる道を知っているのは、匪賊になった農民以外いなかったし、誰もあえてこの道を辿ろうとする冒険をおかすものもいなかった。山道の痕跡すらなく、巨岩と火山の先鋒との混沌とした世界にすぎなかった。 1929年1月の明け方、井岡山と江西―湖南の省境を南へ走る山脈を結びつけるぎざぎざの尾根のいただきを、ぼろぼろの服を着た男女の群...

by Out of Far East

蒋介石による井岡山地方封鎖命令が出された頃、朱徳将軍は広東省から進撃してきた封鎖部隊を切断するための牽制作戦を行おうと、紅軍三個連隊を率いて、南部湖南へ進撃した。旧雲南軍時代の朱徳の旧友范石生将軍が友情を裏切り、反革命の側へ寝返っていたからだった。朱徳は彼に教訓を返してやろうと決意した。 范将軍の諸部隊は南湖南のある都市を占拠し、大量の弾薬を蓄えていた。朱将軍の部隊が突然この町を襲ってきたの...

by Out of Far East

朱徳は井岡山の一帯をくまなく踏破して、地形と防御方法を研究し、匪賊になった農民たちの指導者王佐や袁文才と語り合った。この二人は自分たちと同じ匪賊の一人であった「つんぼの老チュウ」の話を朱徳に語った。この老チュウはよくこういったそうだ。 「おまえらは、戦さのやり方なんぞ知らんでもええ。おまえらが知っとらねばならんことは、どうして敵を囲むかということだけじゃ」 王や袁はこの教えを忠実に守ったので...

by Out of Far East

井岡山会議は朱徳の軍と毛沢東の軍を再編成して、一つの軍に統一することを決定した。この統一軍の隊員は旧第四軍の出身者が多かったので、紅軍第四軍と呼ばれた。この会議では主たる3つの規則が採決された。 1 農民から、たとえ針一本、糸一すじといえども、とってはならぬ。2 没収したものは、すべて提出せよ。3 命令に服従せよ。これにさらに「借りたものは、すべてかえせ」「こわしたものは、すべて弁償せよ」な...

by Out of Far East

朱徳軍は毛沢東の二個大隊に導かれて、山の中の行軍を続けた。この行軍を阻止しようとする敵の部隊を粉砕し、井岡山へ登る5、6本の細道の一つをうねりながら登っていったのである。 井岡山はまわりが150マイルもある山岳地帯の総称だった。美しい景色に囲まれた地域だったが、一年の大半は霧に包まれていた。このあまり生産物に恵まれない山地の真ん中に、木々に覆われた傾斜地に囲まれた広くて丸い谷が横たわっていた...

by Out of Far East

朱徳軍は戦いながら東方へ撤退していき、5月にレイ県地区に野営して井岡山へ登っていく準備をした。その頃、毛沢東と戦ってきた江西省の国民党軍はレイ県の主な郷役場の所在地を占領していた。この連中が湖南省との通信連絡網を破壊してしまったので、毛沢東は連絡ルートを再開するために、井岡山から一挙に攻めくだった。毛沢東は二個大隊を率いて、みずからレイ県の朱徳に会いにやってきたのである。 土地革命の二つの主...

by Out of Far East

新しい妻呉玉蘭の悲惨な最期を語った後、長い間沈黙が続いたが、ようやく辛い思い出を振り切って、莱陽での勇気ある農民たちの物語を始めた。 農民たちはそれまでの数々の勝利に自信をつけて、自分たちだけで国民党の正規軍にぶつかっていったが、そのたびに大虐殺を被るのであった。たとえば、工業都市である衞陽の町を占領した広西軍二個師団を追い出すために、正規の革命軍が来るのを待たずに自分たちだけで激突したこと...

by Out of Far East

郴県に残っていた敵の五個中隊は朱徳軍接近の噂を聞くと、たちまち逃げ出してしまったので、朱徳は一発も撃たずに県城を占領した。まもなく郴県に工農委員会が作られ、続いて県内の村々に工農委員会が作られていった。 当時毛沢東は井岡山をなだれ降りて、江西省一円を掃討してまわっていた。茶陵にあった漢口守備兵大隊は湖南省南部と東部に人民政権が樹立できるまではという勢いで四方に攻撃していた。 郴県の北方に、莱...

by Wayside Photos  ☆道端ふぉと☆

*中国前海自由貿易試験区にて↑何処かで見かけたキャラクターがお出迎えしかし、ちょっと違うなぁ〜 (^_^;)

by Out of Far East

宜章占領後3週間目に、蒋介石軍の二個師団が宜章に向かって進軍してきた。司令官の許克祥将軍は、1927年の5月湖南省で数千の農民をみな殺しにしたので、「百姓殺し」と呼ばれた有名な人物だった。市内は恐慌状態に陥り、みんな付近の村々に逃げ出した。 朱徳は分散していた部隊を呼び戻し、宜章の工農委員会と人民組織の指導者たちを連れて、湖南と広東の省境の山岳地帯へ撤退した。そしてこの地域の二千人の民団を武...

by Out of Far East

城壁をめぐらした小都市宜章の近くに入ると、朱徳軍は農民自衛隊と出会った。この自衛隊は二、三百人の兵力を持ち、十八歳の青年が指揮をとっていた。この青年は家族は全員彼らの地主に殺されてしまい、彼だけが生き残ったのだが、自衛隊には彼のような境遇のものが多かった。この自衛隊は朱徳軍に参加することになった。 次に参加したのは宜章にいる二人の共産党員の一人だったフー・シャア・ハイという知識人で、共産党と...

by Out of Far East

革命軍の分散した部隊が集結し、広東省北部の広東市から2、3日行程にある市に達したときは12月半ばになっていた。このあたりには地主が雇った民団や国民党軍やその他の反動軍が群がっていた。 朱徳の軍は山地を通り抜けてゆく道を探しているときに、広東市の将校訓練連隊の武装した候補生たちの一個連隊と出会った。候補生たちは自分たちが参加した12月11日に起こった広東市の蜂起を語った。この蜂起の中で広東コミ...

by Out of Far East

朱徳は井岡山にいる毛沢東に代表をただちに派遣した。そのあと農民蜂起計画を立てるために桂陽会議に集まってくる各地の共産党代表に会うために、彼の小さな革命軍を率いて、山岳地方をぬけて西方にくだっていった。 この進軍について朱徳が語った話は、まるで不朽の名作『水滸伝』のようであったとスメドレーは回想した。 革命が押しつぶされ。むかしからの抑圧的支配階級がふたたび権力を握ってくると、国中にふたたび匪...

by Out of Far East

大余の町で一週間すごした頃、その当時湖南省南部から広東省の省境に駐屯していた旧雲南軍(第五路軍)の范石生将軍のもとから朱徳将軍に、ひとりの参謀将校が使者としてやってきた。 范将軍は朱徳にあてた手紙で、戦友であり友人でもあるから自分は革命軍とは戦いたくないし、むしろ援助したいと伝えてきた。さらに范将軍は自分の軍隊にいる共産党員たちは立派な革命家なので、彼らの活動に反対する気はないと。また自分の...

by Life with Leica

Nikon D700 AF NIKKOR 50mm F1.4D

by Life with Leica

RICOH GR DIGITAL IV足早に通り過ぎていく時間の後姿を、ただ見失わないように注意しながら生きているような、いつもの3月である。

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