Chinaのタグまとめ

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「China」タグの記事(107)

  1. 八路軍の戦略と戦術 歴史との出合い②ー2 - Out of Far East

    八路軍の戦略と戦術 歴史との出合い②ー2

    私(スメドレー)が1937年10月末に山西省東北部にある五台山の朱徳将軍の司令部に着いた当時、日本軍は山岳地帯を越えて北方と石家荘から深い渓谷をぬって太原府に通ずる鉄道支線に沿う東方の二方面から省都太原府に迫っていた。国民党と山西省の軍隊は北の戦線で日本軍をくいとめていて、東北軍その他の国民党師団は八路軍の第129師団といっしょに東の戦線で支えていた。八路軍の残りの二個師団は敵の後方で機動と...

  2. 盧溝橋事件と南京事件の頃 歴史との出合い②ー1 - Out of Far East

    盧溝橋事件と南京事件の頃 歴史との出合い②ー1

    日本帝国主義は1937年7月7日、北京付近で二十九路軍を攻撃し、前から計画していた中国征服を開始したが、統一戦線はこの時まだまとまっていなかったし、蒋介石も戦う決心を固めていなかった。しかし、特別行政辺区と延安辺区はただちに戦争体制に入り、24時間以内に抗大で勉強していた指揮者たちはそれぞれの部隊に帰るため南に向かって出発し、一方数百人の者が部隊を離れて延安に向かってきた。 日本の侵撃が始ま...

  3. 延安の発展 歴史との出合い①ー4 - Out of Far East

    延安の発展 歴史との出合い①ー4

    国民党軍事使節団の延安訪問の後、私(スメドレー)は紅軍の兵隊は統一戦線をどう思っているでしょうかと朱将軍に尋ねたことがあるが、彼は非常に率直に答えてくれた。 「わが軍の兵隊は、労働者と農民となのだ。彼らは知識人や文化人ではない。そのイデオロギイは、紅軍イデオロギイだ。農民や労働者として、心から地主や軍閥を憎んできた。だから、以前にはどうやるかということがよくわかっていた。ところが今になって、...

  4. 統一戦線に向けて譲歩 歴史との出合い①ー3 - Out of Far East

    統一戦線に向けて譲歩 歴史との出合い①ー3

    朱将軍や毛沢東と二人の幕僚たちは延安でほとんど絶え間なしに会議を開いた。周恩来を長とする共産党代表団が南京に出向いていた1937年2月に、朱徳と毛沢東はそれぞれ共産党と紅軍を代表して、南京で開会中の国民党の国民党中央員会に長文の電報を送った。民族統一戦線の結成を訴え、国民党が国内の民主的改革を行うならば、大きな譲歩をしてもいいと呼びかけたのである。もし統一戦線が作られ、紅軍が国民党軍と同じ待...

  5. 蒋介石抑留の波紋 歴史との出合い①ー2 - Out of Far East

    蒋介石抑留の波紋 歴史との出合い①ー2

    「西安事変」の詳細はまだまとめられていない。後に蒋介石夫妻の名で1937年に刊行された『西安回顧録』も事実を語っていない。蒋介石は否定しているが、西安事変によってすでに実現していた内戦停止と抗日民族統一戦線の結成について共産党と交渉を始めることに同意していた。 蒋の抑留は全世界の反動たちの活動を促した。満州と華北の日本の将軍たちはただちに天津に集まって秘密軍事会議を開いた。全面的中国占領の時...

  6. 西安事変 歴史との出合い①ー1 - Out of Far East

    西安事変 歴史との出合い①ー1

    蒋介石と彼の幕僚は軍事会議を開くため、1936年12月7日西安に到着した。蒋は郊外の硫黄泉臨潼に入り、参謀たちは城内の西安招待所で宿泊した。情勢は「政治的に絶好」と朱徳がいいそうなものになっていた。 蒋としては、もう一度大規模な掃共戦をやるには、まず日本としか戦わないと決意している東北軍を抑える必要があった。この「破壊的な」傾向を変えるには、総統はまず西北における彼の副司令である「青年元帥」...

  7. 長征の終幕 長征④ー7 - Out of Far East

    長征の終幕 長征④ー7

    以上のようにして、江西省寛田を出てから満2年1ヶ月と19日で、長征という一大叙事詩の幕がおりた。再集結した紅軍の実勢力は8万で、1934年10月に江西を出発したときの中央軍の戦闘力とほぼ同じだった西北の山野に集まったこの勢力は、歴史的に類のない独自の勢力だった。 紅軍の本拠は1937年1月から延安に移ったが、そこで張国燾は党中央委員会の審判にかけられた。党の創立に力のあった彼自身が党の基本綱...

  8. 抗日民族統一戦線を希求 長征④ー6 - Out of Far East

    抗日民族統一戦線を希求 長征④ー6

    1937年10月26日シャオ・ホ・チェンで、この地方にいる全紅軍の大集会がもたれた。林彪やその他の指導者が立って、西北の情勢、紅軍と白軍の配置、日本軍の綏遠侵入などについて詳しく報告した。蒋介石は、胡宗南と王均が率いる十個師団を甘粛省に送って紅軍と戦っていた。 紅軍は数ヶ月前にこれらの師団に向かって抗日戦線の統一を呼びかけていた。「青年元帥」張学良は、蒋介石の厳命によって、引き続き部下の東北...

  9. 朱徳軍と第一方面軍再会 長征④ー5 - Out of Far East

    朱徳軍と第一方面軍再会 長征④ー5

    朱徳の軍と林彪の第一方面軍が再会した当時の状況については、1936年の夏に紅軍に加わったアメリカ人の若い医師ジョージ・ヘイテムの書いたものがある。ヘイテムはスイスとシリアのベイルートの医学校を卒業した医師だが、紅軍衛生部隊に参加して以来この重要な時期の間、紅軍と行動を共にした人だ。 このアメリカ人医師は、甘粛省中南部の六区を占領して辺境地区から入ってくる朱徳軍の到着を第一方面軍が迎えた当時の...

  10. 第六次掃共戦 長征④ー4 - Out of Far East

    第六次掃共戦 長征④ー4

    日本の綏遠進撃は蒋介石の新たな掃共作戦と呼応して、紅軍だけでなく青年元帥張学良の旧東北軍や彼と同盟関係の楊虎城の陝西省「保安軍」に対する挟み撃ち作戦の形になった。蒋は、紅軍討伐に対する西北軍の反対気運を「規律と指導の欠陥」に過ぎないと解釈して、事態を刷新するために12月11日西安で特別な掃共軍事会議を開くことにした。西安は青年元帥と楊将軍のそれぞれの司令部の所在地であった。 この西安会議の続...

  11. 民族統一戦線を阻むもの 長征④ー3 - Out of Far East

    民族統一戦線を阻むもの 長征④ー3

    蒋介石は有名な十九路軍の一師団まで辺境地帯に送り込んできた。だが、紅軍との戦闘で二個連隊が消滅すると、指揮官は逃亡し、800人の兵士が投降してきた。この兵士たちの話しを聞けば、十九路軍のかつての指揮官たちはほとんど追い出されて、藍衣社系の将校に代わっている。この将校たちが、紅軍は捕虜の首を切り、眼をくりぬき、腹を裂くという宣伝をしていたのである。ある兵隊は握り拳で自分の頭をぶちながら叫んだ。...

  12. 死線を越えて 長征④ー2 - Out of Far East

    死線を越えて 長征④ー2

    大草原に入り日がたつにつれて、行軍の途上や先鋒隊が作った避難所の中でますます多くの死体を見かけた。疲労困憊した人々は残されたわずかの力をかき集めようとして、避難所で横になるが、後続の人々は彼らが死んでいるのを見かけることになった。どの死者の頭の近くにも炒り麦が少しずつ置かれていた。同志たちが自分自身も必要な食糧を供養して行ったのである。火は燃えつくして、冷えた灰だけが残っていた。 時には、す...

  13. 大草原を通過 長征④ー1 - Out of Far East

    大草原を通過 長征④ー1

    あるとき、私(スメドレー)は彭徳懐の司令部の人たちが長征のことを語り合っているのを聞いた。そのうちの一人がいいだした。「同志の道といえば、ぼくは君たちの誰が長征中にほくの針を盗んだか聞きたいね。今まで口に出さなかったけど、今だに針がないから思い出したよ」皆が笑い、一人が答えた。「君は多分村の娘にやったんだろ。君が物持ちだっていうことを証明するためにね。朱徳が紡いだり織ったりするのは見たことは...

  14. 抗日戦への自覚 長征③ー7 - Out of Far East

    抗日戦への自覚 長征③ー7

    四川の将軍たちが「日本帝国主義の露はらい」の道を選んだことは、歴史からみてもはっきりしているし、朱徳が楊森将軍の部隊と西康省ティエンフとミンヤーで2回交戦した後に書いた論文からも明らかである。この戦闘中に多数の四川兵が紅軍に寝返っていた。 この論文では、捕虜の取り扱いと教育についても多くのページをさいて、こんなふうに書いている。武装を解除してから捕虜を将校と兵士との集団に分け、別々の宿舎に入...

  15. 四川軍将校への呼びかけ 長征③ー6 - Out of Far East

    四川軍将校への呼びかけ 長征③ー6

    事実上朱将軍が張国燾の捕虜のような状態で西康省で過ごした一年間のことについては、私(スメドレー)は彼から直接話が聞けなかった。ちょうどこの時期の聞き取りになった時、抗日戦が始まって、彼は前線に出動したからである。そこで私は、ほかの人の話や、彼がこの時期に書いた軍事や政治に関する書き物に頼るしかなかった。それから推察すると、朱将軍は、西康にいるあいだに精力的に書き物をしたばかりでなく、四川軍閥...

  16. 朱徳西康省へ 長征③ー5 - Out of Far East

    朱徳西康省へ 長征③ー5

    第四方面軍の張国燾と朱徳たちの方針の確執について政治工作員の話は続く。 「会議は大いに荒れたが、最後に張は、第四方面軍で行われている軍閥式なしきたりややり方をすっかり改めることを約束した。しかし、蒋介石が目的の達成のために十万の軍隊を投入していることを理由に、北進政策への反対は撤回しなかった。最善の策は、来た道を天全まで戻って、チベットの町打籠炉を占領し、西康省に勢力を張ることだといった。し...

  17. 張国燾の驕り 長征③ー4 - Out of Far East

    張国燾の驕り 長征③ー4

    ある政治工作員は第四方面軍を迎えたときの様子を次のように説明した。 「第四方面軍には五万人の兵隊がいた。四川、湖南、湖北出身の身体が大きい勇敢な連中だった。もともとは貧農や農奴だったので、何でもする気になっていた。高い英雄主義を発揮して戦ったし、よく困苦にも耐えた。張国燾は物質的にはよく彼らの面倒をみたので、食べ物や衣料は十分行き渡っていた。だが、政治や一般的な教育についてはほとんど何もしな...

  18. 第四方面軍と合流 長征③ー3 - Out of Far East

    第四方面軍と合流 長征③ー3

    彭徳懐の先鋒隊に同行した政治工作員の一人が次のように当時のことを語ってくれた。 「われわれは、黒水付近で4日間ファン族と戦って、ウェイクというみすぼらしい小部落に着いた。住民は逃げていて、川の綱の吊り橋はこわされていた。彼らはウェイクのすぐ背後の高い切り立った崖の上に位置して、われわれに向かって丸い大石をころがし落した。彭は彼らを追っぱらうため、部隊を派遣しなければならなかった。 「崖や山の...

  19. 來金山越え 長征③ー2 - Out of Far East

    來金山越え 長征③ー2

    朱将軍は忙しくなってきて、私(スメドレー)に当時の話をする暇を作れなくなったので、事情に詳しい人々を紹介してくれた上、彼自身が書いた大切な文書類を貸してくれた。 私(スメドレー)に話してくれたひとりの政治工作員は、一番苦しかった山越えはクーチョウだったと語った。たいして高い山ではなかったが、陽の光が全然差さないくらい鬱蒼たる森林に覆われていた。部隊はどしゃ降りの中で腰まで泥につかり、木の枝に...

  20. 大雪山脈へ 長征③ー1 - Out of Far East

    大雪山脈へ 長征③ー1

    地図で見ると大渡河から懋功までは100マイルほどしか離れていないが、そこに着くまでには7週間かかった。中央紅軍は懋功で四川からくる第四方面軍と落ち合って、華北に向かう手筈になっていた。 前方の氷河や雪のある山を越す準備に10日を費やし、その後1週間休んだ。その頃、行軍を開始するため前に小さな戦闘があった。打箭炉からチベット人の乱暴な一個連隊が四川軍の援軍として攻撃してきたのである。チベット人...

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