別府の歴史のタグまとめ
「別府の歴史」タグの記事(14)
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16. 「幻の華白蓮」別府菓子組合
16. 「幻の華白蓮」別府菓子組合
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15. ロールケーキ発祥の地「ニュードラゴン」
流川通り4(中央町1)の角にニュードラゴンという洋菓子さんがあったが、2018年12月31日を持って東荘園店と統合し、この流川店は閉店した。ロールケーキが有名な店で、ロールケーキはこの店が発祥なのだという。有名なお菓子なのに意外と知られていない。洋菓子屋の名前にしては「ニュードラゴン」というのはとても勇ましすぎるような気もするが、先代の笹木敏弘さん(故人)が1970年(昭和45)に流川に店舗...
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013.リボンシトロンとニッポンビール
リボンシトロンとリボンナポリンは、サッポロビールというイメージが強いけど、鉄輪にある温泉浴場に古い鏡を見つけた。「ニッポンビール」として「リボンシトロン」を製造していたのは、昭和24年から昭和39年までの15年間。この間に製造された鏡を、平成10年の改築の時に掛けてくれたのか、先代昭和33年のコンクリート建造の時から使っていたものなのか。釘1本で落ちずにかかっていた。【開拓使から始まる:開拓...
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012.別府タワーとパンパン
【2019年11月23日撮影】現在北浜にある別府タワーは、1957年に完成し高さが90m。作者は内藤多仲(ないとうたちゅう)。名古屋テレビ塔、通天閣、別府タワー、札幌テレビ塔、東京タワー、博多ポートタワーの6兄弟を完成させた人物で、耐震に優れた技術を持つ人物だそう。タワーというと、テレビの電波を受ける役目があると思いがちで、実際そのような目的があったらしいが大分の各局は十文字原の方に基地(十...
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011.別府海軍病院2(門柱)
亀川駅に昔の亀川風景のパネルが展示されてあります。画質はよくないけれど一度カメラに収めると伸びた画像が縮小されて見やすくなりました。その中に「海軍病院」つまり亀川海軍病院の画像があります。門柱がm今も残っているかもしれない。海軍病院がどちら向きに建っていたのかが不明確。一つ目の門柱ですが、形はよくにていますが少し細いようで、違うと判断しました。左側の門柱の太さが少し細い気がします。次の門柱で...
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010.別府海軍病院
別府には旧日本国軍の施設がいくつかあって、そのうちの一つ「別府海軍病院」は、現在の別府医療センターの前進です。大正末期14年に、亀川海軍病院として創設されましたが、亀川町が別府市に編入されたため名称を「別府海軍病院」と改称。別府医療センターの北側のはずれの方に、今も関係していそうな建物がなぜかぽつんと残されてあります。そこまで古い印象が無いので、最近できたもののような気もしますが・・・やはり...
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009.数か所でにぎわった海浜砂湯
別府の砂湯の絵葉書は、土産物屋の絵葉書販売は、お宿から客への小さな礼物・記念品としてよく渡されていたようで、比較的多く出回っているようです。老若男女の砂湯の絵葉書があるが、絵的にもご婦人のもののほうが良ろしいようで、女性が映り込むものが多いように思う。海浜砂湯は、楠港のあたりから、亀川の方まであちこちのものが残っている。楠港の近くにあった砂湯を「港南砂湯」と呼んでいたらしく、亀川の方にあるも...
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008. 別府温泉化学研究所
(合名会社)別府温泉化学研究所1951(S26)「東和薬品商会」大阪に創業1957(S32)東和薬品株式会社1984(S59)(名)別府温泉化学研究所を買収し、大分工場として注射器や薬の製造を始める2009(H21)大分工場閉鎖令和元年撮影同じ建物がまだそのままの状態で残されていました。別府石を積んだ石垣と、ドアストッパー(和名がわからない)として石を埋め込んだありました。
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007.「中浜筋商店街」と「団子どおり」
006. 「楠本町」という地名と「楠銀天街」で取りあげた「楠銀天街」より東(海側)へ50メートル移動したところに「中浜筋」はある。港が埋め立てられる前までは、この中浜筋が海との境界だったらしい。なので道はくねくねと曲がっている。100年ほど前には、中浜筋商店街と楠銀天街の間にも「団子どおり」という道があったらしい。団子などが売られ当時は一番活気のある商店街だったが、両サイドに2つの商店街が出...
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006.「楠本町」という地名と「楠銀天街」
流川通りに垂直に交わる楠銀天街。現在は「楠町」という町名だが昔の絵葉書を見ると「楠本町」となっていた。秋葉通りにあるお菓子やの「とらや」角にある飲泉も「桜町の飲泉」という名前があるのに、なぜかそこは「桜町」ではないし、そもそも別府には「桜町」自体が無いように思い師匠に相談したことがある。この辺一帯はむかし妓楼も多いことから「桜町」と呼ばれていたそうで、通名なのか正式名称ではないにしろそのよう...
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004. 乗船料は三等で6円、大阪ー別府航路「みどり丸...
別府に初めてできた港は、現在のYOUMEタウンのところにある「楠港」。はじめは湯治客らが小型船の船で別府へやってきたが、やがて明治に入ると大阪と別府を結ぶ新航路も登場した。1884年(明17)に瀬戸内の船主らが集まり創立、運用は「大阪商船有限会社」。明治以前より船便は盛んだったが、西南戦争以降にはさらに盛況となり、戦後の不況で運賃値下げ競争やら、船体整備の不良により事故が頓発したため事態を重...
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003. 「鉄輪地獄」と「雷園」
現在の貸間陽光荘(大分県別府市井田)のところに「鉄輪地獄」が存在した。開発されたのは1922年(大11)で、1935年(昭12)まであった。その後は「入湯貸間鉄輪地獄」、「陽光荘」と名前を変えたらしい。この頃の別府といえば地獄遊覧が大人気で、大正後期から昭和の初期にかけて小さな噴気を見つけては開発していたらしい。不動明王を置き”地獄らしさ”を演出しているのも、こういった地獄遊覧の観光客を完全...
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002. アメリカ映画「鉄の爪」
松原公園にあった映画館「松栄館」にアメリカミステリー映画が来たらしい。映画のタイトルは「鉄の爪」。なんと流川通りが暗渠化された年の1917年の作品だそう。詳細はよくわからなかったが、「ゴリラのような怪物が出てくる」とか?オカルトミステリーのようなものだったのかもしれない。日本で映画の吹き替えが始まったのが、昭和18(1943)頃だというから随分後になって上映となったのか、当時の人が英語そのま...
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001. 流川通りにあった旧別府牛乳株式会社
流川通8の付近、つまり別府駅の南西側の高架下、現在の「大分県信用組合別府支店」のあるところに別府牛乳株式会社はあった。明治40(1907)「大分牧畜合資株式会社」が、昭和15(1940)には「別府牛乳株式会社」が設立され、この二つの会社が合併し、昭和32(1957)に「大分共同乳業株式会社」とって、現在の社名は「2代目九州乳業株式会社」に至る。あの「みどり牛乳」でおなじみの会社だ。九州乳業と...