天誅組のタグまとめ

天誅組」のタグがついている新着記事と人気記事をまとめました。エキサイトブログには天誅組に関連するブログ(日記、記録、写真、レビュー、噂、まとめ)がたくさん投稿されています。

「天誅組」タグの記事(33)

  1. 天誅組の足跡を訪ねて。その29「天誅義士湯ノ谷墓所」 - 坂の上のサインボード

    天誅組の足跡を訪ねて。その29「天誅義士湯ノ谷墓所」

    鷲家には「天誅義士湯ノ谷墓所」があります。ここも、「その26」で紹介した明治谷墓所と同じく天誅組隊士たちが葬られています。 伊勢街道沿いに「天誅義士墓所」と刻まれた石碑が建てられています。 この石碑は比較的新しいもののようです。 柵を開けてなかに入ると、このあたりの集落の墓地があり、墓地内に「天誅義士湯ノ谷墓所」と書かれた案内板が。 墓地のいちばん奥の一角に、特別な場所といった雰囲気の古い玉...

  2. 天誅組の足跡を訪ねて。その28「松本奎堂戦死之地」 - 坂の上のサインボード

    天誅組の足跡を訪ねて。その28「松本奎堂戦死之地」

    「その27」の最後に紹介した藤本鉄石が紀州藩撃ち方の的場喜一郎を討ち取ったという場所は、現在、天誅組史跡公園となっており、藤本とともに天誅組三総裁のひとりだった松本奎堂の戦死の地を示す石碑が建てられています。 文久3年9月24日(1863年11月5日)に起きた鷲家口の決戦で、決死隊が囮となって壮絶な死を遂げていた隙きに、松本奎堂は藤本鉄石堂とともに敵中突破に成功し、丹生川上神社から高見川に沿...

  3. 天誅組の足跡を訪ねて。その27「鷲家古戦場~藤本鉄石 福浦元吉 戦死之地」 - 坂の上のサインボード

    天誅組の足跡を訪ねて。その27「鷲家古戦場~藤本鉄石 ...

    鷲家口の激戦地から3kmほど北上した鷲家にも、天誅組史跡が残されています。まずは、幕府より命を受けて追討軍として出陣した津藩の陣所跡です。 古い家屋の2階部分に看板が見えます。 「天誅組史跡(油屋)藤堂藩陣所跡」と記されています。藤堂藩とは津藩のこと。津藩の追討軍は、かつてここにあった油屋に陣を布き、天誅組の行く手を阻みました。 家屋の横の植え込みには、「藤堂藩本陣跡」と刻まれた石碑が。 そ...

  4. 天誅組の足跡を訪ねて。その26「天誅義士明治谷墓所」 - 坂の上のサインボード

    天誅組の足跡を訪ねて。その26「天誅義士明治谷墓所」

    「その25」で紹介した宝泉寺から南東に200mほど歩いたところにある墓地に、宝泉寺で菩提を弔われていた天誅組隊士たちの墓があります。 墓所入口には、「天誅義士墓所」と刻まれた石碑が建てられています。その横には石灯籠と「天誅義士明治谷墓所」と書かれた看板が。 石碑です。 天誅組隊士の墓所は何か所かありますが、ここに葬られている天誅組隊士の名簿です。吉村寅太郎以外は、文久3年9月24日(1863...

  5. 天誅組の足跡を訪ねて。その25「宝泉寺(天誅組菩提寺)・天誅義士記念碑」 - 坂の上のサインボード

    天誅組の足跡を訪ねて。その25「宝泉寺(天誅組菩提寺)...

    東吉野村の丘の上にある宝泉寺は、文久3年9月24日(1863年11月5日)に起きた鷲家口の決戦における戦死者の菩提寺です。 宝泉寺は「その19」で紹介した出店坂の上にあります。那須信吾ら決死隊は、この前を通って出店坂を駆け下り、彦根藩脇本陣碇屋に斬り込みました。 ここで菩提を弔われている戦死者たちです。吉村寅太郎以外は、「その19」から「その24」までで紹介した鷲家口の決戦で最期を遂げた隊士...

  6. 天誅組の足跡を訪ねて。その24「鷲家口古戦場~鍋島米之助・森下幾馬戦死の地・島村省吾捕縛地」 - 坂の上のサインボード

    天誅組の足跡を訪ねて。その24「鷲家口古戦場~鍋島米之...

    鷲家口古戦場から伊勢街道を1kmほど北上したところに、「天誅義士 鍋島米之助先生戦死之地」と刻まれた石碑があります。 鍋島米之助は、文久3年9月24日(1863年11月5日)、那須信吾を隊長とした決死隊6名のうちのひとりです。彼らは中山忠光率いる天誅組本隊を逃がすための捨て石として、彦根藩陣所に斬り込みました。 説明板によると、敵弾を受けて負傷した鍋島は敵陣を突破してこのあたり「一ノ谷」まで...

  7. 天誅組の足跡を訪ねて。その23「鷲家口古戦場~林豹吉郎戦死の地・誕生地」 - 坂の上のサインボード

    天誅組の足跡を訪ねて。その23「鷲家口古戦場~林豹吉郎...

    「その22」で紹介した宍戸弥四郎戦死の地のすぐ北側に、「天誅義士 林豹吉郎先生戦死之地」と刻まれた石碑があります。 林豹吉郎は、文久3年9月24日(1863年11月5日)、那須信吾を隊長とした決死隊6名のうちのひとりです。彼らは中山忠光率いる天誅組本隊を逃がすための捨て石として、玉砕戦に散りました。 説明板によると、林豹吉郎は川口釣具店の付近より敵陣の裏を進み、紙屋重兵衛宅前に陣していた彦根...

  8. 天誅組の足跡を訪ねて。その22「鷲家口古戦場~宍戸弥四郎戦死の地」 - 坂の上のサインボード

    天誅組の足跡を訪ねて。その22「鷲家口古戦場~宍戸弥四...

    鷲家口北側の県道16号線と220号線が交わる三叉路に、「天誅義士 宍戸弥四郎先生戦死之地」と刻まれた石碑があります。 宍戸弥四郎は三河国刈谷藩出身の人物で、天誅組では副隊長格でした。天誅組三総裁の一人である松本奎堂とは、竹馬の友だったといいます。刈谷藩は小藩ながら譜代大名で、宍戸と松本は、譜代藩出身の勤皇志士という異色の経歴の持ち主でした。 宍戸は旧藩時代、馬廻役に取り立てられ、のちに江戸に...

  9. 天誅組の足跡を訪ねて。その21「鷲家口古戦場~植村定七・山下佐吉(安田鉄蔵)戦死の地」 - 坂の上のサインボード

    天誅組の足跡を訪ねて。その21「鷲家口古戦場~植村定七...

    「その19」で紹介した出店坂の上にある吉野小学校の校舎沿いに、「天誅義士 植村定七先生戦死之地」と刻まれた石碑があります。 植村定七は那須信吾を隊長とする決死隊6名の1人ですが、五條近在の人という以外、詳しいことはわかっていません。 説明板によると、文久3年9月24日(1863年11月5日)夕方、決死隊が彦根藩陣所を攻め込むべく出店坂を駆け下りる際、この付近で彦根藩歩兵頭の伊藤弥左衛門という...

  10. 天誅組の足跡を訪ねて。その20「鷲家口古戦場~天保高殿・西田仁兵衛戦死の地」 - 坂の上のサインボード

    天誅組の足跡を訪ねて。その20「鷲家口古戦場~天保高殿...

    「その19」で紹介した那須信吾戦死の地のすぐ近くの高見川沿いに、「天保高殿先生戦死之地・西田仁兵衛先生戦死之地」と刻まれた石碑があります。天保高殿は水戸藩脱藩浪士、西田仁兵衛は武蔵国出身の人物だったようですが、それ以上のことはよくわかりません。 石碑は高見川沿いの堤防の上にあります。 その横に建てられた説明板は、「その18」で紹介した出合橋跡を説明したもので、二人とは関係ありません。 両士に...

  11. 天誅組の足跡を訪ねて。その19「鷲家口古戦場~那須信吾戦死の地」 - 坂の上のサインボード

    天誅組の足跡を訪ねて。その19「鷲家口古戦場~那須信吾...

    文久3年9月24日(1863年11月5日)夕方、鷲家口手前で軍議を開いた天誅組残党一行は、敵陣に決死隊を斬り込ませて撹乱し、その隙に中山忠光ら本体が切り抜ける作戦を立てます。その決死隊に志願したのは、那須信吾を隊長として、鍋島米之助、宍戸弥四郎、名所繁馬、植村定七、林豹吉郎の6名でした。那須は、もとは土佐勤皇党の一員で、あの吉田東洋暗殺の実行犯と言われる人物です。彼らは、宝泉寺前の出店坂を駆...

  12. 天誅組の足跡を訪ねて。その18「鷲家口古戦場~出合橋」 - 坂の上のサインボード

    天誅組の足跡を訪ねて。その18「鷲家口古戦場~出合橋」

    高取城攻めで大敗を喫し、天ノ辻本陣まで退却した天誅組でしたが、そこで、中山忠光と吉村寅太郎らの意見が別れはじめます。そこへ、幕府の命を受けた紀州藩、津藩、彦根藩、郡山藩などによる総勢1万4000の討伐軍が進軍を開始し、さらに文久3年9月1日(1863年10月13日)には、追い打ちをかけるように朝廷からも天誅組追討の勅令が下されました。つまり、天誅組は幕府、朝廷の両方から暴徒とみなされたわけで...

  13. 天誅組の足跡を訪ねて。その17「鳥ヶ峰古戦場」 - 坂の上のサインボード

    天誅組の足跡を訪ねて。その17「鳥ヶ峰古戦場」

    「その15」で紹介した天ノ辻へ本陣を移した天誅組は、近隣の高取藩に兵糧の提供を求めます。この数日前、天誅組は五條代官所襲撃後すぐに高取藩に対して那須信吾らを恭順勧告の使者として送り、高取藩もこれに服する旨を伝えてきていました。しかし、京の政局が変わるや否や、高取藩は態度を翻して兵糧の差し出しを拒否します。そこで、天誅組は高取城の攻撃を決定。文久3年8月25日(1863年10月7日)に進軍を開...

  14. 天誅組の足跡を訪ねて。その16「賀名生皇居跡(堀家住宅)」 - 坂の上のサインボード

    天誅組の足跡を訪ねて。その16「賀名生皇居跡(堀家住宅)」

    櫻井寺本陣から天辻本陣に南下するちょうど中間地点あたりに、賀名生(あのう)という山里があるのですが、かつてここは、南北朝時代の一時期、南朝の行宮所が置かれた場所です。現在、その場所は賀名生の里歴史公園として観光用に公園整備されています。 延元元年/建武3年(1336年)12月28日、後醍醐天皇(第96代天皇・南朝初代天皇)は京を逃れて吉野山に潜行しますが、その途中、天皇は一時この地に滞在した...

  15. 天誅組の足跡を訪ねて。その15「天誅組天ノ辻本陣跡」 - 坂の上のサインボード

    天誅組の足跡を訪ねて。その15「天誅組天ノ辻本陣跡」

    文久3年8月17日(1863年9月29日)に櫻井寺(別稿:その11)で五条新政府を立ち上げるも、その翌日に起きた「八月十八日の政変」により、わずか1日で逆賊となってしまった天誅組。京で天誅組追討の命が下されたことが明らかとなると、解散か抗戦か協議のすえ、徹底抗戦の道を選びます。もう、代官らを殺しちゃってましたからね。いまさら後戻りは出来なかったのでしょう。そして櫻井寺を後にした天誅組は、南下...

  16. 天誅組の足跡を訪ねて。その14「森田節齋宅跡・顕彰碑」 - 坂の上のサインボード

    天誅組の足跡を訪ねて。その14「森田節齋宅跡・顕彰碑」

    五條は、幕末の思想家・森田節齋の出身地です。森田節齋は頼山陽に学び、頼三樹三郎や梅田雲浜、宮部鼎造らと親しく交わり、その門下には吉田松陰や久坂玄瑞がいました。そして、同じ五條出身で天誅組の隊士となった乾十郎も、森田節齋に学びました。 現在、市内の住宅地の一角に、「森田節齋宅跡」と刻まれた石碑があります。 説明板です。サビサビで一部読めません。 石碑から500mほど北上したところには、森田節齋...

  17. 天誅組の足跡を訪ねて。その13「井澤宜庵宅跡・墓所」 - 坂の上のサインボード

    天誅組の足跡を訪ねて。その13「井澤宜庵宅跡・墓所」

    五條出身の天誅組隊士としては、「その12」で紹介した乾十郎のほかにも2人いましたが、そのなかのひとり井澤宜庵の住居あとにも石碑が建てられています。 井澤宜庵は乾十郎と同じく、五條で医者をしていた人物です。あまり有名な人ではありませんが、天誅組には軍医として参加していたそうです。軍中では病傷人の面倒をよくみ、隊士の信頼も厚かったと伝わります。 説明板によると、高取城攻めで負傷した吉村寅太郎の手...

  18. 1863年 生野の変鉱山町に眠る討幕の志 - SAMとバイクとpastime

    1863年 生野の変鉱山町に眠る討幕の志

    生野の変但馬の豪農で尊王攘夷派の北垣慎太郎は大和国五条代官所を襲った天誅組の変に呼応し、討幕の流れを作ろうと、江戸や京都ではなく、生野銀山を擁する幕府直轄の但馬国生野(現兵庫県朝来市生野町)で、農民組織をもって代官所を占領した。幕府直轄の地で挙兵すれば、全国で次々と討幕軍が蜂起すると考えたのだった。読売新聞「維新の記憶」から 1863年10月12日、生野代官所を農兵2000人をもって無血占拠...

  19. 天誅組の足跡を訪ねて。その12「乾十郎宅跡・顕彰碑・墓所」 - 坂の上のサインボード

    天誅組の足跡を訪ねて。その12「乾十郎宅跡・顕彰碑・墓所」

    「その11」で紹介した櫻井寺の南側に、五條出身の天誅組隊士・乾十郎の住居がありました。現在、その跡地には石碑が建てられています。 乾十郎は4歳にして孟子を諳んじるほどの秀才だったといい、同じく五條出身の森田節斎に儒学を、その弟の仁庵に医学を、そして京に出て梅田雲浜に国学を学びます。 大坂に出て町医を開業した後、再び五條に戻って医者をする傍ら、吉野川に放流する材木に課せられる材木税を不当として...

  20. 天誅組の足跡を訪ねて。その11「櫻井寺(天誅組本陣跡)」 - 坂の上のサインボード

    天誅組の足跡を訪ねて。その11「櫻井寺(天誅組本陣跡)」

    文久3年8月17日(1863年9月29日)、天誅組隊士はいっせいに挙兵し、五條代官所を襲って代官の鈴木正信(源内)を殺害すると、ここ櫻井寺を本陣として五條新政府を号し、討幕の旗をあげました。 現在、櫻井寺の入口には、「天誅組本陣跡」と刻まれた石碑が建てられています。 明治100年を記念して建てられたもののようです。 彼ら天誅組が五條で旗揚げしたのは、攘夷を望まれる孝明天皇の大和行幸の先鋒とな...

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