新選組のタグまとめ

新選組」のタグがついている新着記事と人気記事をまとめました。エキサイトブログには新選組に関連するブログ(日記、記録、写真、レビュー、噂、まとめ)がたくさん投稿されています。

「新選組」タグの記事(16)

  1. 幕末京都逍遥 その113 「戒光寺(御陵衛士菩提寺)」 - 坂の上のサインボード

    幕末京都逍遥 その113 「戒光寺(御陵衛士菩提寺)」

    東山にある泉涌寺の塔頭・戒光寺に、慶応3年11月18日(1867年12月13日)に起きた油小路通事件で落命した伊東甲子太郎ら御陵衛士4人の墓があります。 ここに葬られているのは、新選組・近藤勇らの謀略によって殺された伊東甲子太郎、藤堂平助、服部三郎兵衛、毛内監物の4人。彼らの遺体は、事件後3日間現場に放置されていたといいます。これは、生き残った御陵衛士の他のメンバーを誘き寄せるための新選組の...

  2. 幕末京都逍遥 その112 「御陵衛士屯所跡(月真院)」 - 坂の上のサインボード

    幕末京都逍遥 その112 「御陵衛士屯所跡(月真院)」

    東山にある高台寺の塔頭、月真院を訪れました。ここは、新選組から分裂した伊東甲子太郎率いる御陵衛士が屯所とした場所です。 伊東甲子太郎は新選組中途加入組でしたが、その高い学識と北辰一刀流で鍛えた剣術、さらには容姿端麗で巧みな弁舌から、たちまち隊内で存在感を表し、人望を集めました。そんな伊東を近藤勇は参謀兼文学師範に任じて重用しますが、しかし、もともとは水戸学を学んだ勤王志士だった伊東は、近藤ら...

  3. 幕末京都逍遥 その110 「伊東甲子太郎外数名殉難之跡(本光寺)」 - 坂の上のサインボード

    幕末京都逍遥 その110 「伊東甲子太郎外数名殉難之跡...

    前稿で紹介した不動堂明王院から北へ150mほど上ったところにある本光寺の山門の横に、「伊東甲子太郎外数名殉難之跡」と刻まれた石碑があります。ここは新選組元隊士の伊東甲子太郎ら御陵衛士の面々が粛清された油小路事件があったとされる場所です。 伊東甲子太郎は新選組中途加入組でしたが、その高い学識と北辰一刀流で鍛えた剣術、さらには容姿端麗で巧みな弁舌から、たちまち隊内で存在感を表し、人望を集めました...

  4. 幕末京都逍遥 その109 「新選組不動堂村屯所跡~不動堂明王院」 - 坂の上のサインボード

    幕末京都逍遥 その109 「新選組不動堂村屯所跡~不動...

    西本願寺の屯所を出た(追い出された?)新選組は、西本願寺から500mほど南の不動堂村に移転します。現在、リーガロイヤルホテル京都の敷地内には、その跡地を示す石碑と説明板があります。 石碑には、新選組のシンボルである「誠」の文字と、「事あらばわれも都の村人となりてやすめん皇御心」という近藤勇の歌が刻まれています。 慶応3年6月10日(1867年7月11日)、新選組はこれまでの働きが認められて、...

  5. 幕末京都逍遥 その108 「西本願寺(新選組屯所跡)」 - 坂の上のサインボード

    幕末京都逍遥 その108 「西本願寺(新選組屯所跡)」

    世界遺産の西本願寺にやってきました。ここは幕末、新選組の第2の屯所となった場所です。 文久3年(1863年)春に上洛して以来、洛西壬生村の八木邸(参照:その96)や前川邸(参照:その97)を屯所としてきた新選組でしたが、池田屋事件で一躍脚光を浴びると幕府の支援も厚くなり、やがて隊は200人を越える大所帯となり、大人数を収容できる新たな拠点が必要となりました。そこで、元治2年3月10日(186...

  6. 幕末京都逍遥 その107 「輪違屋(島原)」 - 坂の上のサインボード

    幕末京都逍遥 その107 「輪違屋(島原)」

    島原で現在も唯一、茶屋を営業されているのが、輪違屋です。輪違屋の創業は元禄元年(1688年)、置屋として始まりました。当時は「養花楼」といったそうです。 前稿でも紹介しましたが、島原には大きくふたつに分けて「置屋」と「揚屋」がありました。「置屋」は、太夫や芸妓に芸を教える教育の場で、お客さんは出入りしません。「揚屋」は、現代でいう料亭にあたり、置屋から太夫や芸妓を派遣してもらい、遊宴を催す会...

  7. 幕末京都逍遥 その106 「角屋(島原)」 - 坂の上のサインボード

    幕末京都逍遥 その106 「角屋(島原)」

    江戸時代の京都の花街「島原」には、寛永17年(1640年)もしくはは寛永18年(1641年)の創業当時の建物をそのまま今に伝える「角屋」があります。江戸期の饗宴もてなしの文化の場である揚屋建築の唯一の遺構として、昭和27年(1952年)に国の重要文化財に指定されました。 島原には大きくふたつに分けて「置屋」と「揚屋」がありました。「置屋」は、太夫や芸妓に芸を教える教育の場で、お客さんは出入り...

  8. 幕末京都逍遥 その105 「島原大門」 - 坂の上のサインボード

    幕末京都逍遥 その105 「島原大門」

    江戸時代の京都の花街「島原」にやってきました。島原は、寛永17年(1640年)もしくはは寛永18年(1641年)に六条三筋町から移転してきた日本初の幕府公認の遊女街です。正式名称は「西新屋敷」といいましたが、その急な移転騒動が九州の島原の乱の直後だったため、それになぞらえて「島原」と呼ぶようになったそうです。 現在は花街としての面影はほとんど残っておらず、写真の「大門」と、唯一営業を続けてい...

  9. 幕末京都逍遥 その104 「光縁寺(新選組墓所)」 - 坂の上のサインボード

    幕末京都逍遥 その104 「光縁寺(新選組墓所)」

    前々稿で紹介した壬生寺に、新選組隊士の墓がありましたが、そこから西へ400mほどのところにある光縁寺にも、新選組隊士の墓があります。 山門の横には、「新選組之墓」と刻まれた石碑があります。 山門の柱にも、「新選組之墓所」の文字が。 光縁寺の門前近くには新選組の馬小屋があったそうで、毎日、門前を隊士たちが往来していました。ある日、総長の山南敬助が山門の瓦の家紋に目をやると、山南家の家紋と同じ「...

  10. 幕末京都逍遥 その103 「新徳寺(清河八郎演説の地)」 - 坂の上のサインボード

    幕末京都逍遥 その103 「新徳寺(清河八郎演説の地)」

    前稿で紹介した壬生寺の東側の坊城通りを挟んですぐ向かいに、新徳寺というお寺があります。ここは、は新選組にまつわる最初の大舞台となった場所です。 新選組誕生の発端は、文久2年(1862年)に庄内藩郷士・清河八郎の献策を幕府が受け入れ、第14代将軍・徳川家茂の上洛の警護の名目で浪士を募集したことに始まります。集まった230名余りの浪士たちは、翌文久3年(1863年)春、「浪士組」として将軍上洛に...

  11. 幕末京都逍遥 その102 「壬生寺(壬生塚)」 - 坂の上のサインボード

    幕末京都逍遥 その102 「壬生寺(壬生塚)」

    前々稿で紹介した八木邸のすぐ南に壬生寺というお寺があるのですが、その境内に、新選組の隊士を祀る壬生塚があります。 壬生寺は正暦2年(991年)、園城寺(三井寺)の僧・快賢が創建したと伝わります。ご本尊に延命地蔵菩薩像(重要文化財)が安置されているほか、水掛け地蔵や夜啼き地蔵など、多くのお地蔵様をおまつりしていることから、「お地蔵さんの寺」として知られています。 ここが壬生塚の入口です。参拝料...

  12. 幕末京都逍遥 その101 「旧前川邸跡(新撰組壬生屯所跡)」 - 坂の上のサインボード

    幕末京都逍遥 その101 「旧前川邸跡(新撰組壬生屯所跡)」

    前稿で紹介した八木邸跡から坊城通りを挟んですぐ東側に、旧前川邸跡があります。ここも八木邸と同じく、初期の新選組の屯所となった屋敷です。 文久3年(1863年)春、第14代将軍・徳川家茂の警護のために清河八郎率いる浪士組が上洛しますが、隣の八木邸と同じく、ここ前川荘司の屋敷もその宿舎のひとつとして使われました。その後、八木邸に分宿していた十数名だけが京に残って新選組の前身である壬生浪士組となり...

  13. 幕末京都逍遥 その100 「八木邸跡(新撰組壬生屯所跡)」 - 坂の上のサインボード

    幕末京都逍遥 その100 「八木邸跡(新撰組壬生屯所跡)」

    二条城から1kmほど南下した洛西の壬生地区にやってきました。壬生といえば、やはり新選組ですね。そこで最初に訪れたのは、新選組の最初の屯所となった壬生村の郷士・八木源之丞の屋敷跡です。 文久3年(1863年)春、第14代将軍・徳川家茂の警護のために清河八郎率いる浪士組が上洛しますが、その宿舎のひとつとして使われたのがここ八木家の屋敷でした。清河ら浪士組のほとんどは、在京20日余りで再び江戸に戻...

  14. 幕末京都逍遥 その99 「妙蓮寺(禁門の変時の刀傷)」 - 坂の上のサインボード

    幕末京都逍遥 その99 「妙蓮寺(禁門の変時の刀傷)」

    前稿で紹介した浄福寺から1kmほど北上したところにある妙蓮寺にも、幕末の刀傷が残されています。 妙蓮寺は鎌倉時代の僧・日像によって創建された寺院で、全盛期には1km四方の境内に27ヶ院を有する大寺院でしたが、天明8年(1788年)の天明の大火災によってそのほとんどが焼失し、山門と鐘楼を残すのみとなりました。その後、寛政元年(1789)より復興して今日に至ります。 鐘楼と本堂です。 本堂です。...

  15. 幕末京都逍遥 その97 「古高俊太郎遺髪墓(福勝寺)」 - 坂の上のサインボード

    幕末京都逍遥 その97 「古高俊太郎遺髪墓(福勝寺)」

    前稿、前々稿で紹介した教善寺・浄圓寺から北東に300mほどのところにある福勝寺に、古高俊太郎の遺髪墓があります。古高は攘夷派の志士で、池田屋事件の発端となった人物です。 古高俊太郎は近江国大津出身で、京都に移住したのち梅田雲浜に師事し、尊皇攘夷思想を学びます。その後、同士のひとりだった湯浅五郎兵衛の依頼で、湯浅喜右衛門の養子となり、小道具の「桝屋」を継いで枡屋喜右衛門と名乗ります。その「桝屋...

  16. 幕末京都逍遥 その96 「池田屋惣兵衛の墓(浄圓寺)」 - 坂の上のサインボード

    幕末京都逍遥 その96 「池田屋惣兵衛の墓(浄圓寺)」

    前稿で紹介した教善寺のすぐ隣にある浄圓寺に、幕末期の商人・入江屋惣兵衛の墓があります。別名、池田屋惣兵衛ともいいます。そう、あの池田屋事件の舞台となった京都三条小橋西の池田屋の主人です。江戸時代、商人は屋号を姓として称していたため、一般には池田屋惣兵衛の名で知られていました。「池田屋事件」とは、元治元年6月5日(1864年7月8日)夜、在洛の長州、土州など諸藩の尊王攘夷派志士たちが謀議中に新...

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