教育・学問ジャンル×新選組のタグまとめ

新選組」のタグがついている新着記事と人気記事をまとめました。エキサイトブログには新選組に関連するブログ(日記、記録、写真、レビュー、噂、まとめ)がたくさん投稿されています。

「新選組」タグの記事(28)

  1. 桐谷さん?! - カフェだんだら

    桐谷さん?!

    本日も「カフェだんだら」へのご来店、誠にありがとうございましたm(._.)m先日来て頂いたお友達の旦那様が前に一緒に来て下さったお友達とまた来るかもと仰っていたのですが、その予告通り今日来て下さいました♪美術館に行ってきたそうでまた素敵なポストカードと吉祥寺でいつも行列の小ざさの最中をたくさん戴きました♪行列の出来るお店だから当たり前ですが、とても美味しくて大好きなので嬉しかったです\(^o...

  2. 飲み物 - カフェだんだら

    飲み物

    コーヒー400円紅茶450円アイスコーヒー450円アイスティー450円カフェオレココア(ホット・アイス)黒糖きなこラテ(ホット・アイス)ほうじ茶ラテ(ホット・アイス)抹茶ラテ(ホット・アイス)各500円レモンヨーグルトジュース梅ソーダ桃のジュース新選組とゆかりの深い福島の桃のジュースです。コーラ各400円コーヒーフロート黒糖きなこラテフロート抹茶ラテフロート各580円ミルクスープ(コンソメ味...

  3. カフェだんだら - カフェだんだら

    カフェだんだら

    店名カフェ だんだら住所東京都 三鷹市下連雀2-23-9 アサショウビル1A最寄り駅JR三鷹駅 道順JR三鷹駅南口より徒歩14分JR三鷹駅南口よりバス 鷹64(京王バス) のりば①鷹60(京王バス/小田急バス) のりば③鷹58(小田急バス) のりば⑧※1日2本です。 鷹54【南浦】(小田急バス) のりば⑦停留所「仲町通り」降車後、道を戻り1分、仲町交差点を右に入ってすぐ電話番号0422-4...

  4. 幕末京都逍遥その159「戊辰役東軍戦死者埋骨地(光明寺跡)」 - 坂の上のサインボード

    幕末京都逍遥その159「戊辰役東軍戦死者埋骨地(光明寺跡)」

    淀城の前に、かつて光明寺というお寺がありました。「その157」で紹介したとおり、慶応4年1月5日(1868年1月29日)に千両松の戦いで、旧幕府軍に多くの死者が出ました。その戦死者たちを葬った寺のひとつが、ここ光明寺でした。 その後、光明寺は明治の廃仏毀釈によって廃寺となり、ここに葬られていた旧幕府軍の墓は、近くの長円寺に移葬されました。現在、その跡地には、石碑のみが建てられています。 地蔵...

  5. 幕末京都逍遥その149「魚三楼(弾痕)」 - 坂の上のサインボード

    幕末京都逍遥その149「魚三楼(弾痕)」

    「その147」で紹介した伏見奉行所の近くにある料亭・魚三楼には、慶応4年1月3日(1868年1月27日)に勃発した鳥羽・伏見の戦いにおける銃撃戦でできたとされる弾痕があります。 城下町である伏見は、L字路、T字路といった敵から見通せないように工夫された街路がいくつも組み合わさった「遠見遮断」と言われる構造になっています。そのため、鳥羽伏見の戦いの際には、見通しの悪い街路を挟んで激しい市街戦が...

  6. 幕末京都逍遥その148「伏見口の戦い激戦地跡」 - 坂の上のサインボード

    幕末京都逍遥その148「伏見口の戦い激戦地跡」

    「その137」 「その138」で紹介した寺田屋のすぐ西側にある京橋の傍に、「伏見口の戦い激戦地跡」と刻まれた石碑があります。 京橋は宇治川に注ぐ川に架かる橋です。江戸時代、京橋周辺は船着場として栄えました。寺田屋がその船着場の旅館として幕末ににぎわっていたという話は、以前の稿でお話ししたかと思います。 鳥羽・伏見の戦いの火蓋が切られる前日の慶応4年1月2日(1868年1月26日)夕刻、会津藩...

  7. 幕末京都逍遥その147「伏見奉行所跡」 - 坂の上のサインボード

    幕末京都逍遥その147「伏見奉行所跡」

    「その146」で紹介した御香宮神社から200mほど南下したところに、かつて伏見奉行所がありました。現在、その跡地には石碑が建てられ、往時を思わせる塀が演出されています。 慶応3年12月9日(1868年1月3日)に王政復古の大号令が下されると、4日後の12月13日に会津藩の命を受けた新選組は、伏見方面の治安維持の名目で伏見奉行所へ駐屯することとなります。そして16日には、近藤勇を隊長に総勢15...

  8. 幕末京都逍遥その113「戒光寺(御陵衛士菩提寺)」 - 坂の上のサインボード

    幕末京都逍遥その113「戒光寺(御陵衛士菩提寺)」

    東山にある泉涌寺の塔頭・戒光寺に、慶応3年11月18日(1867年12月13日)に起きた油小路通事件で落命した伊東甲子太郎ら御陵衛士4人の墓があります。 ここに葬られているのは、新選組・近藤勇らの謀略によって殺された伊東甲子太郎、藤堂平助、服部三郎兵衛、毛内監物の4人。彼らの遺体は、事件後3日間現場に放置されていたといいます。これは、生き残った御陵衛士の他のメンバーを誘き寄せるための新選組の...

  9. 幕末京都逍遥その112「御陵衛士屯所跡(月真院)」 - 坂の上のサインボード

    幕末京都逍遥その112「御陵衛士屯所跡(月真院)」

    東山にある高台寺の塔頭、月真院を訪れました。ここは、新選組から分裂した伊東甲子太郎率いる御陵衛士が屯所とした場所です。 伊東甲子太郎は新選組中途加入組でしたが、その高い学識と北辰一刀流で鍛えた剣術、さらには容姿端麗で巧みな弁舌から、たちまち隊内で存在感を表し、人望を集めました。そんな伊東を近藤勇は参謀兼文学師範に任じて重用しますが、しかし、もともとは水戸学を学んだ勤王志士だった伊東は、近藤ら...

  10. 幕末京都逍遥その110「伊東甲子太郎外数名殉難之跡(本光寺)」 - 坂の上のサインボード

    幕末京都逍遥その110「伊東甲子太郎外数名殉難之跡(本...

    前稿で紹介した不動堂明王院から北へ150mほど上ったところにある本光寺の山門の横に、「伊東甲子太郎外数名殉難之跡」と刻まれた石碑があります。ここは新選組元隊士の伊東甲子太郎ら御陵衛士の面々が粛清された油小路事件があったとされる場所です。 伊東甲子太郎は新選組中途加入組でしたが、その高い学識と北辰一刀流で鍛えた剣術、さらには容姿端麗で巧みな弁舌から、たちまち隊内で存在感を表し、人望を集めました...

  11. 幕末京都逍遥その109「新選組不動堂村屯所跡~不動堂明王院」 - 坂の上のサインボード

    幕末京都逍遥その109「新選組不動堂村屯所跡~不動堂明王院」

    西本願寺の屯所を出た(追い出された?)新選組は、西本願寺から500mほど南の不動堂村に移転します。現在、リーガロイヤルホテル京都の敷地内には、その跡地を示す石碑と説明板があります。 石碑には、新選組のシンボルである「誠」の文字と、「事あらばわれも都の村人となりてやすめん皇御心」という近藤勇の歌が刻まれています。 慶応3年6月10日(1867年7月11日)、新選組はこれまでの働きが認められて、...

  12. 幕末京都逍遥その108「西本願寺(新選組屯所跡)」 - 坂の上のサインボード

    幕末京都逍遥その108「西本願寺(新選組屯所跡)」

    世界遺産の西本願寺にやってきました。ここは幕末、新選組の第2の屯所となった場所です。 文久3年(1863年)春に上洛して以来、洛西壬生村の八木邸(参照:その96)や前川邸(参照:その97)を屯所としてきた新選組でしたが、池田屋事件で一躍脚光を浴びると幕府の支援も厚くなり、やがて隊は200人を越える大所帯となり、大人数を収容できる新たな拠点が必要となりました。そこで、元治2年3月10日(186...

  13. 幕末京都逍遥その107「輪違屋(島原)」 - 坂の上のサインボード

    幕末京都逍遥その107「輪違屋(島原)」

    島原で現在も唯一、茶屋を営業されているのが、輪違屋です。輪違屋の創業は元禄元年(1688年)、置屋として始まりました。当時は「養花楼」といったそうです。 前稿でも紹介しましたが、島原には大きくふたつに分けて「置屋」と「揚屋」がありました。「置屋」は、太夫や芸妓に芸を教える教育の場で、お客さんは出入りしません。「揚屋」は、現代でいう料亭にあたり、置屋から太夫や芸妓を派遣してもらい、遊宴を催す会...

  14. 幕末京都逍遥その106「角屋(島原)」 - 坂の上のサインボード

    幕末京都逍遥その106「角屋(島原)」

    江戸時代の京都の花街「島原」には、寛永17年(1640年)もしくはは寛永18年(1641年)の創業当時の建物をそのまま今に伝える「角屋」があります。江戸期の饗宴もてなしの文化の場である揚屋建築の唯一の遺構として、昭和27年(1952年)に国の重要文化財に指定されました。 島原には大きくふたつに分けて「置屋」と「揚屋」がありました。「置屋」は、太夫や芸妓に芸を教える教育の場で、お客さんは出入り...

  15. 幕末京都逍遥その105「島原大門」 - 坂の上のサインボード

    幕末京都逍遥その105「島原大門」

    江戸時代の京都の花街「島原」にやってきました。島原は、寛永17年(1640年)もしくはは寛永18年(1641年)に六条三筋町から移転してきた日本初の幕府公認の遊女街です。正式名称は「西新屋敷」といいましたが、その急な移転騒動が九州の島原の乱の直後だったため、それになぞらえて「島原」と呼ぶようになったそうです。 現在は花街としての面影はほとんど残っておらず、写真の「大門」と、唯一営業を続けてい...

  16. 幕末京都逍遥その104「光縁寺(新選組墓所)」 - 坂の上のサインボード

    幕末京都逍遥その104「光縁寺(新選組墓所)」

    前々稿で紹介した壬生寺に、新選組隊士の墓がありましたが、そこから西へ400mほどのところにある光縁寺にも、新選組隊士の墓があります。 山門の横には、「新選組之墓」と刻まれた石碑があります。 山門の柱にも、「新選組之墓所」の文字が。 光縁寺の門前近くには新選組の馬小屋があったそうで、毎日、門前を隊士たちが往来していました。ある日、総長の山南敬助が山門の瓦の家紋に目をやると、山南家の家紋と同じ「...

  17. 幕末京都逍遥その103「新徳寺(清河八郎演説の地)」 - 坂の上のサインボード

    幕末京都逍遥その103「新徳寺(清河八郎演説の地)」

    前稿で紹介した壬生寺の東側の坊城通りを挟んですぐ向かいに、新徳寺というお寺があります。ここは、は新選組にまつわる最初の大舞台となった場所です。 新選組誕生の発端は、文久2年(1862年)に庄内藩郷士・清河八郎の献策を幕府が受け入れ、第14代将軍・徳川家茂の上洛の警護の名目で浪士を募集したことに始まります。集まった230名余りの浪士たちは、翌文久3年(1863年)春、「浪士組」として将軍上洛に...

  18. 幕末京都逍遥その102「壬生寺(壬生塚)」 - 坂の上のサインボード

    幕末京都逍遥その102「壬生寺(壬生塚)」

    前々稿で紹介した八木邸のすぐ南に壬生寺というお寺があるのですが、その境内に、新選組の隊士を祀る壬生塚があります。 壬生寺は正暦2年(991年)、園城寺(三井寺)の僧・快賢が創建したと伝わります。ご本尊に延命地蔵菩薩像(重要文化財)が安置されているほか、水掛け地蔵や夜啼き地蔵など、多くのお地蔵様をおまつりしていることから、「お地蔵さんの寺」として知られています。 ここが壬生塚の入口です。参拝料...

  19. 幕末京都逍遥その101「旧前川邸跡(新撰組壬生屯所跡)」 - 坂の上のサインボード

    幕末京都逍遥その101「旧前川邸跡(新撰組壬生屯所跡)」

    前稿で紹介した八木邸跡から坊城通りを挟んですぐ東側に、旧前川邸跡があります。ここも八木邸と同じく、初期の新選組の屯所となった屋敷です。 文久3年(1863年)春、第14代将軍・徳川家茂の警護のために清河八郎率いる浪士組が上洛しますが、隣の八木邸と同じく、ここ前川荘司の屋敷もその宿舎のひとつとして使われました。その後、八木邸に分宿していた十数名だけが京に残って新選組の前身である壬生浪士組となり...

  20. 幕末京都逍遥その100「八木邸跡(新撰組壬生屯所跡)」 - 坂の上のサインボード

    幕末京都逍遥その100「八木邸跡(新撰組壬生屯所跡)」

    二条城から1kmほど南下した洛西の壬生地区にやってきました。壬生といえば、やはり新選組ですね。そこで最初に訪れたのは、新選組の最初の屯所となった壬生村の郷士・八木源之丞の屋敷跡です。 文久3年(1863年)春、第14代将軍・徳川家茂の警護のために清河八郎率いる浪士組が上洛しますが、その宿舎のひとつとして使われたのがここ八木家の屋敷でした。清河ら浪士組のほとんどは、在京20日余りで再び江戸に戻...

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