煩悩即菩提のタグまとめ
「煩悩即菩提」タグの記事(8)
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キルケゴールの人生の3段階の道
キルケゴールという哲学者がいます。西洋哲学の最高峰は実存主義です。彼は実存の三段階というのを考えています。第一段階は美的実存です。これは単純に欲望を満たす段階です。人間の幸せは、結局、欲をどうするかということしか知りません。しかし、欲望は無限なので、どんなに頑張っても満たしきることはできません。第二段階は倫理的実存です。善いことをしようという段階です。善をしようとすると、自分のためと思ってい...
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煩悩即菩提は科学はおろか言葉でも表せない
煩悩をそのまま喜び転じる煩悩即菩提というのは、科学では表せません。なぜかというと、科学は、物質のみを対象としているからです。煩悩即菩提の世界は、心の体験ですので、科学はおろか、言葉でさえも表せません。例えば、ベビーキウイの味を表現するにはどうしたらいいでしょうか。メロンの味?と聞かれたら、メロンに非ず、といいます。リンゴの味?と聞かれたら、リンゴに非ず、といいます。どんな果物を聞かれても、そ...
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煩悩しかない人が幸せになる方法
親鸞聖人は9歳で出家され、それから29歳までの20年間、比叡山で法華経を学ばれ、その通りに修行しておられました。比叡山の麒麟児といわれたほどです。しかし、29歳の正月に比叡山を捨てられました。それは、法華経までの仏教に何が教えられているかによるのです。親鸞聖人は、真剣にされた。20年です。最後知らされたのはできないということです。なくすことも減らすこともできません。煩悩の塊だと知らされたので...
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真実の信心(絶対の幸福)は二種深信
絶対の幸福には、自分はいい人間と思っているうちはなれません。これを淤泥不染の徳といいます。淤泥というのは、泥のことです。蓮の花が、ドロドロの泥田に咲くようなものです。人間は煩悩の固まりです。煩悩で悪を作ります。そんなどろどろのどろ田に蓮華が咲きます。その煩悩具足のままということ。不染というのは、泥田の煩悩は変わらないままで、煩悩がそのまま菩提になります。煩悩即菩提ということです。悪人が私であ...
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煩悩即菩提になった人の実例
心の闇が晴れた親鸞聖人は、極善無上の幸せ者になられました。極善無上の幸せというのは、煩悩即菩提です。煩悩がそのまま幸せに転じる苦しみが幸せに転じる世界です。例えば、35才で親鸞聖人は流刑にあわれました。その時には、無実の罪で流刑にあわせた権力者達に対して主著の教行信証にこう書かれています。主上臣下、法に背き義に違し、忿をなし怨を結ぶ(教行信証)主上臣下というのは天皇も下臣どもも、ということで...
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絶対の幸福はもっと分かり易く説明できないの?
生きる意味が絶対の幸福なんだったら、絶対の幸福は大切なことなんだから、もっと分かり易く説明できないの?と思った人はいるのではないでしょうか?結局これは、今日の最先端の科学から言っても、実は当然起きる疑問なんですね。それで仏教の内容に入る前に科学の世界ではどうか、説明したいと思います。難しい言葉続きますが、ほとんどわからないという人がいても自信喪失する必要はありません。ちょっとでもわかればあな...
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田んぼには泥にそまらない清らかな蓮の花が咲く
仏教には正しい信心が教えられています。浄土真宗の勤行で読まれている『正信偈』も、仏教を教えられた親鸞聖人が、正しい信心を明らかにされたものです。その正しい信心には、蓮の花の特徴があります。蓮の花の特徴でまずあげられるのは、「淤泥不染(おでいふぜん)の徳」です。「淤泥不染」の「淤泥」というのは、煩悩のことです。煩悩というのは、欲望や怒りや愚痴の心です。欲というのは、金が欲しい、物が欲しい、誉め...
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即非の論理
絶対の幸福は煩悩即菩提のことです。それは生きてよし死んでよしという心。絶対の幸福になるまでは想像もできません。ブッダが七千余巻の一切経で導こうとされた世界です。哲学者のキルケゴールは欲望を満たして幸せになれないことは分かりました。欲望は無限だから無限の欲を満たすことはできません。欲望を抑えて人のために生きようとするのは、いいことです。人のため人のためとやると自分のためだから偽善と知らされます...