陸奥宗光のタグまとめ

陸奥宗光」のタグがついている新着記事と人気記事をまとめました。エキサイトブログには陸奥宗光に関連するブログ(日記、記録、写真、レビュー、噂、まとめ)がたくさん投稿されています。

「陸奥宗光」タグの記事(14)

  1. 大佛次郎墓へ(鎌倉五山寿福寺) - 大佛次郎記念館NEWS

    大佛次郎墓へ(鎌倉五山寿福寺)

    大佛次郎の命日は、4月30日でしたが、その頃は外出自粛期間につき墓参は見合わせておりましたが、ようやくこのたび万全のコロナウィルス感染症拡大防止対策をしつつ、記念館スタッフが大佛次郎墓参をすることができました。大佛次郎の墓は、鎌倉五山のひとつ寿福寺です。こちらは、小町通りからほど近くにあり足を運びやすい立地です。大佛次郎も利用したという昔からの花屋さんで仏花を購入し、寿福寺に向かいます。参道...

  2. 葉室麟著「暁天の星」を読み終える - 折々の記

    葉室麟著「暁天の星」を読み終える

    葉室麟さんの著書「暁天の星」を読み終える。今月、PHP社から出たばかりの単行本である。1,700円+税。ご存知葉室さんは、1年半前の平成29年(2017)12月23日に逝去されている。享年66歳だった。この著書の巻末に葉室麟さんの長女、葉室涼子さんが「刊行に寄せて」と題して書かれている。平成29年4月末、「暁天の星」の第1回締め切りの前日だというに、葉室麟さんは一行も書けずにいた。実は精密検...

  3. 11-1■対外硬派と陸奥外相 - 星亨伝

    11-1■対外硬派と陸奥外相

    官紀問題で幕を開けた第五議会は、いよいよ外交問題に入った。言うところの『対外硬派』は、現行条約励行建議案、外交条約取締法案、外国条約執行障害者処罰法案などを提出し、盛んに排外気勢をあげたのである。条約改正の交渉は、まさに進行中である。これらの諸案が議会を通過した場合、外国人はなんというだろうか。当時の条約は徳川時代に締結された不対等条約であった。例えば外国の要求による条項が八つあったとすれば...

  4. 10-6■衆議院議長に就任する - 星亨伝

    10-6■衆議院議長に就任する

    第三議会(特別)は、明治二五年五月に召集され星亨は衆議院議長に当選した。その経緯はこうである。陸奥宗光は選挙干渉に不満のため、去る三月辞任した。じっとして居らぬ彼は、和歌山県選出の新議員全部を自己の配下に結束し、これを主力とする『独立倶楽部』の設立に成功した。しかし彼は表面に現れず、その腹心たる岡崎邦輔を通じてこれを操縦したのである。『独立倶楽部』は三二名で、完全に衆議院の決定票(キヤスティ...

  5. 10-2■陸奥宗光の入閣の経緯 - 星亨伝

    10-2■陸奥宗光の入閣の経緯

    陸奥宗光は、同年五月山懸内閣に入って農商務大臣の椅子におさまり、現職のまま衆議院議員に当選していた。陸奥の入閣は星亨にとって少しも意外でなかった。いよいようまくやったな、と微笑したであろうが、議員当選には甚だ意外に感じた。星がワシントンで陸奥に会い総選挙に出馬を勧めた時には、陸奥はこれに応じなかった。そして例によって藩閥の内部に食い込んで、内から藩閥を打倒すると言う秘策を説き、今に見よ、内...

  6. 9-6■憲法発布と星の欧米視察 - 星亨伝

    9-6■憲法発布と星の欧米視察

    保安保例の発布で、後藤は闘将の凡てを失ったににもかかわらず、それでも彼は屈せず、全国を遊説して大同団結に努めていた。明治二二年二月一一日に憲法が発布された翌三月二二日、これもまた、突然、後藤が黒田内閣に入閣して農商務大臣に任ぜられた。(注11 )彼は入閣の理由を声明して『予の入閣は内閣に入って大同団結の主義を貫徹す為ためである』といったが、これはあながち表面を飾る口実ではなかった。彼も板垣も...

  7. 7-4■共同運輸会社創立と改進党を偽党攻撃 - 星亨伝

    7-4■共同運輸会社創立と改進党を偽党攻撃

    渋沢栄一がこの三菱の専横を制するため、海運会社を設立しようと企てたところ、これを知った三菱は、その手先の新聞に『第一銀行(頭取渋沢)は破産に瀕し、渋沢は自殺を企てた』と書かせたということである。(渋沢栄一伝)しかし渋沢は、かような三菱の迫害にも屈せず、三井の益田孝の賛成を得て農商務次官品川弥二郎を動かし、資本金六〇〇万円の内、二六〇万円を政府の持株とするところ、共同運輸会社を創立した。この会...

  8. 4-11■陸奥『日本人』と題する一篇発表 - 星亨伝

    4-11■陸奥『日本人』と題する一篇発表

    4-11■陸奥『日本人』と題する一篇発表井上馨は大久保大蔵卿の外遊中、大輔を以て財政の実権を握っていた。その緊縮方針のために、江藤司法卿及び大木文部卿と衝突し、双方執って譲らないので、三條太政大臣は新たに大蔵事務総裁を設けて大隈参議をこれに任じ、財政状態を調査庁せしめた結果、大隈は、井上の悲観説に反し、司法、文部の要求を容れる余裕がある旨を上申したので、井上は憤然辞職(明治六年五月)大久保大...

  9. 4-7■閉門百日の刑に処せられる - 星亨伝

    4-7■閉門百日の刑に処せられる

    4-7■閉門百日の刑に処せられる星亨は、和歌山にいた両親を呼び迎えるため、さっそく手紙を出した。両親は彼が明治二年に和歌山を出た後も、引き続き七人扶持で和歌山に暮らしていたが、廃藩置県後は、その扶持も切りになったであろう。陸奥宗光はこの年(明治五年)正月に外務大丞を兼ねたので、東京にも住宅の必要があり、政府が没収したところの、本所清澄町の某大名下屋敷を、無料で借りていた。星亨は性来非常な大酒...

  10. 4-5■神奈川県英学校修文館教頭に就任 - 星亨伝

    4-5■神奈川県英学校修文館教頭に就任

    明治四年(一八七一年)七月、廃藩置県の発令あり、同月、津田出は大蔵少輔に任じ、翌八月、陸奥は神奈川県知事に任ぜられた。伊藤の勧めに従ったのである。かくて一〇万軍隊の編成計画は中止され、星亨も和歌山に用はなくなったのである。身の振り方を考え東京へ出る決心をした。しかし、当てのない先に両親を連れて行くわけにもいかず、陸奥に相談した結果、藩庁と掛け合い「星にして其志の如く学問をなし遂げたる上は、他...

  11. 4-4■和歌山藩兵学寮の英語教師に専念 - 星亨伝

    4-4■和歌山藩兵学寮の英語教師に専念

    星亨は明治三年九月、大阪開成所を辞し、和歌山藩兵学寮の英語教師に専念することになった。即ち星亨が和歌山に赴任した時には、陸奥は既に欧州に出発した後であった。星亨との約束は、出発前にできていたのである。星亨と同時に、林董、小松清治(ドイツ語学者)なども聘用された。この紀州藩の兵制改革は、天下の評判になったと見え、薩州からも視察’に来たという話である。明治二年四月十五日附木戸孝允から伊藤博文に送...

  12. 4-3■陸奥宗光が官途を辞して和歌山に帰った事情 - 星亨伝

    4-3■陸奥宗光が官途を辞して和歌山に帰った事情

    陸奥が官途を辞めたのは、津田大参事の懇請により、藩政改革に当たるためであった。実は彼は大宝律令復活の新官制に不満であり、藩閥のバッコには、更に大いに不平であった。彼は、明治元年正月土州藩士として出仕した時には、長州藩の伊藤博文、薩州瀋の寺島宗則など肩を並べ、外国事務御用掛に任ぜられたが、同年三月、紀州藩に帰参し同藩徴士と言う資格になった。伊藤、寺島、は外国事務局判事になったにも関わらず、彼は...

  13. 4-1■大阪洋学校の訓導になる - 星亨伝

    4-1■大阪洋学校の訓導になる

    星亨は、小浜から大阪に行って、可礼之「瓊江塾」の塾頭になった。塾内では星亨の実力と個性で「塾中は何かと円滑を欠く」有様になった。そのような折、可礼之の旧知であり兵庫県知事陸奥宗光が神戸に興す学校の英語教師を求めてきた。そこで何は陸奥に星亨を推挙した。陸奥は紀州藩の名門に生れたが、幕末に脱藩して、坂本龍馬の指導を受けて活動し、明治元年正月、土州藩士として朝廷に召し出され、外国事務御用掛となった...

  14. 幕末京都逍遥その111「天満屋事件跡(中井庄五郎殉難地)」 - 坂の上のサインボード

    幕末京都逍遥その111「天満屋事件跡(中井庄五郎殉難地)」

    前稿で紹介した本光寺から油小路通を400mほど北上したところに、「勤王之士 贈従五位 中井正五郎殉難之地」と刻まれた石碑があります。ここは、幕末、天満屋という旅籠があった場所で、慶応3年12月7日(1868年1月1日)、ここで世に言う「天満屋事件」が起きます。 慶応3年11月15日(1867年12月9日)、四条河原町の近江屋において坂本龍馬と中岡慎太郎が暗殺されますが、龍馬の死を知った海援隊...

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