2019日記のタグまとめ

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「2019日記」タグの記事(240)

  1. 2019日記【259】柿本人麻呂についての私的妄想26 - 久我山散人

    2019日記【259】柿本人麻呂についての私的妄想26

    妄想もいいかげんにしろ!、と言いたいところだが、言ってしまおう。柿本人麻呂の長歌を分類してみると、1 近江朝(近江荒都)、草壁皇子(挽歌)については冷めた目2 明日香皇女(挽歌)、高市皇子(挽歌)については万感の哀切と、まったく様相が違う。この違いは、ありていに言って、持統天皇の心情であり、それを全面的に人麻呂が受け入れているのだろう。持統天皇の、明日香皇女、高市皇子への偏愛は明らかだ。それ...

  2. 2019日記【258】柿本人麻呂についての私的妄想25 - 久我山散人

    2019日記【258】柿本人麻呂についての私的妄想25

    ◾️689年 草壁皇子(くさかべおうじ)のための挽歌【大意】・(前半はアマテラスから天武までの神話体系を謳い上げる)・(後半は草壁皇子について、)(天武天皇は神のままで天上へ登った=神上がりした。そこで、それに続く)草壁皇子の世は、春の花の貴いように、望月が満ちるように、世の人々が大船に乗ったように頼みとし、慈雨を仰いで待つように、(皆が期待していたのに、草壁皇子は)どのように思われたのか、...

  3. 2019日記【257】柿本人麻呂についての私的妄想24 - 久我山散人

    2019日記【257】柿本人麻呂についての私的妄想24

    ◾️ふたつの挽歌【妄想】柿本人麻呂※年齢は今のところの推定◾️686年(33歳)天武天皇崩御 持統天皇による挽歌(額田王引退?)◾️689年(36歳) 草壁皇子(くさかべおうじ)のための挽歌私は、天武天皇への挽歌は、名義は持統天皇作になっているけど、実作者は額田王だと思う。それから3年後の、草壁皇子への挽歌は、柿本人麻呂作であると記されている。天武天皇崩御の後、額田王の役割が、人麻呂に任...

  4. 2019日記【256】柿本人麻呂についての私的妄想23 - 久我山散人

    2019日記【256】柿本人麻呂についての私的妄想23

    ◾️681年2月25日、草壁皇子は、確かに皇太子になっている。しかし、日本書紀は、◾️683年2月1日、大津皇子が初めて朝政を執ると、明記している。この時期、天武天皇はたて続けに政治改革を実施し、実務も山積していた。「大津皇子が朝政を執る」という書き方は、不気味だ。大胆に解釈すると、681年に草壁皇子を皇太子にしてみたが、実務的に無理だったので、大津皇子に朝政を任せた、とも読める。そうであれ...

  5. 2019日記【255】柿本人麻呂についての私的妄想22 - 久我山散人

    2019日記【255】柿本人麻呂についての私的妄想22

    吉野浩子先生は、「草壁皇子の死〜ある白昼夢〜」という一文のなかで、草壁皇子は持統天皇・藤原不比等ラインに毒殺された、という空想を語っている。私の妄想も、吉野浩子先生に大きく依拠しているのだが、まず、草壁皇子の死の20年以上前のことである。斉明天皇に付き従って、百済復興戦争準備のため、父(天智天皇)、夫(天武天皇)とともに九州に赴き、姉(おおた)、妹(うののさらら)は、彼の地で続いて出産した。...

  6. 2019日記【254】柿本人麻呂についての私的妄想21 - 久我山散人

    2019日記【254】柿本人麻呂についての私的妄想21

    ◾️大津皇子、草壁皇太子についての日本書紀の記述1 大津皇子(謀反が「発覚」し刑死)『威儀備わり言語明朗で天智天皇に愛されていた。成長するに及び有能で才学に富み、特に文筆を愛した。この頃の詩賦の興隆は、大津皇子に始まった』(686年10月3日)2 草壁皇太子(原因不明の突然死)『皇太子草壁の皇子が薨去された』(689年4月13日)天武天皇崩御の後、3週間後にクーデター計画が発覚し、翌日処刑さ...

  7. 2019日記【253】柿本人麻呂についての私的妄想20 - 久我山散人

    2019日記【253】柿本人麻呂についての私的妄想20

    持統天皇の時代が始まって、大津皇子、草壁皇太子が世を去った。ここまでの年表と、カッコ内は柿本人麻呂の推定年齢。671年 天智天皇崩御(18歳)672年 大友皇子縊死(19歳)678年 十市皇女(とおちのひめみこ)突然死(25歳)686年9月9日 天武天皇崩御(33歳)686年10月2日 大津皇子の変(翌日処刑)(33歳)687〜8年 天武天皇の葬送関連行事689年 草壁皇太子薨去(36歳)十...

  8. 2019日記【252】柿本人麻呂についての私的妄想19 - 久我山散人

    2019日記【252】柿本人麻呂についての私的妄想19

    ◾️近江荒都歌2近江荒都歌1(短歌2首)は、壬申の乱から7年が経った678年春、十市皇女(とおちのひめみこ)の突然死の直前にまとめられた。近江荒都歌2(長歌を含む全体)は、万葉集の配列による推定=688年ころまとめられた、というのが妥当かもしれない。近江荒都歌2(長歌)(万葉集の編纂にあたって誰かが付けた詞書(題詞))◾️近江の荒れたる都を過ぐる時に、柿本朝臣人麻呂の作る歌以上の詞書(題詞)...

  9. 2019日記【251】柿本人麻呂についての私的妄想18 - 久我山散人

    2019日記【251】柿本人麻呂についての私的妄想18

    ◾️近江荒都歌1◾️ささなみの志賀の辛崎さきくあれど大宮人の船待ちかねつ◾️ささなみの志賀のおほわだ淀むとも昔の人にまたも逢はめやも(現代で読みやすいように表記を少し変えてある)この2首には、少なくとも2人の、結果としては3人の悲しい死が反映されている。671年 天智天皇崩御672年 大友皇子縊死678年 十市皇女(とおちのひめみこ)の突然死【意訳】◾️さざなみ寄せる志賀の辛崎の港よ。おまえ...

  10. 2019日記【250】柿本人麻呂についての私的妄想17 - 久我山散人

    2019日記【250】柿本人麻呂についての私的妄想17

    ◾️壬申の乱と近江荒都さて、いよいよ柿本人麻呂の宮廷への登場、「近江荒都歌」場所は、飛鳥浄御原の宮殿、「うののさららサロン」。宮廷歌壇には、かげに額田王が君臨していた。(672年 壬申の乱)(680年より前 柿本人麻呂、宮廷歌壇に登場)◾️近江荒都歌1 (天武天皇の最晩年のころ?)◾️近江荒都歌2 (万葉集の配列による推定=688年ころ)以上の妄想は、巡遊神人だった柿本人麻呂が、詩才を認めら...

  11. 2019日記【249】柿本人麻呂についての私的妄想16 - 久我山散人

    2019日記【249】柿本人麻呂についての私的妄想16

    壬申の乱は白村江敗戦の清算でもある。天智天皇は、白村江敗戦の責任でがんじがらめになった。当人は、母斉明天皇に引きずり回されただけだったが、出兵した西国の、敗戦対応で使役された東国の負担と怨嗟は大きかった。斉明天皇の崩御で、出兵取り止めのチャンスはあったかに見えるが、どうだろう。北九州勢力と、畿内勢力は、この頃までは拮抗していたのだろう。北九州勢は、百済を一部復興し、そこに事実上の傀儡政権がで...

  12. 2019日記【247】柿本人麻呂についての私的妄想14 - 久我山散人

    2019日記【247】柿本人麻呂についての私的妄想14

    ◾️壬申の乱と近江荒都さて、巡遊神人として旅を重ねていた青年柿本人麻呂に、転機が訪れる。壬申の乱だ。簡単に推移をおさらいしておこう。◾️672年6月24日大海人皇子(後の天武天皇)隠棲先の吉野を出発、宇陀、名張、鈴鹿、三重を経て26日桑名に至る。・高市皇子及び大津皇子と伊勢で合流するよう手配(他の男子は幼なすぎて使いものにならない)・高市皇子は甲賀越えして合流・大津皇子は鈴鹿関に到着(両皇子...

  13. 2019日記【246】柿本人麻呂についての私的妄想13 - 久我山散人

    2019日記【246】柿本人麻呂についての私的妄想13

    ◾️凡海麁鎌(おおあまのアラカマ)とは、凡海(大海)氏は安曇氏などとも関係が深い、海運に長けた一族らしい。年表で調べてみると、1 凡海麁鎌氏本人が、大海人皇子=天武天皇の養育に直接関わったとするには、年齢が若すぎる。凡海麁鎌は、柿本人麻呂よりやや年長と見るのが妥当かもしれない。2 凡海麁鎌は天武天皇の弔辞を1番目に述べいる。弔辞を呈する者の順は、内容が天武天皇の若年時のものから並べられたにし...

  14. 2019日記【245】柿本人麻呂についての私的妄想12 - 久我山散人

    2019日記【245】柿本人麻呂についての私的妄想12

    さて巡遊神人・柿本人麻呂、先輩について神社運営・フランチャイジーの管理・祝詞デリバリーなどに励む一方、陸路・海路での移動の習熟、地域事情の知識獲得などを重ねた。地域地域の風俗、歌舞音曲を知った。おそらく副業として地域の珍しい特産物を仕入れてきた。中世では人身売買も密かに、あるいは大っぴらに(山椒大夫にある安寿と厨子王のように北陸道あたりでも)、あった。古代においてはなおさらだ。まさか人麻呂は...

  15. 2019日記【244】柿本人麻呂についての私的妄想14 - 久我山散人

    2019日記【244】柿本人麻呂についての私的妄想14

    ◾️大祓のなかのイメージと人麻呂4「大祓(おほはらへ)の詞(ことば)」の成立過程についてはまったく無知だが、今後の課題としておくとして、1 アマテラス=ヒミコの北九州連合国形成過程、すなわち(九州)「邪馬臺国の平和」の時代、邪馬臺国は連合国のガバナンスを学んだ。2 北九州連合は崩壊し、再びクニグニの戦国の世となり、邪馬臺国は東遷した。東遷する様子を日本書紀で考えると、彼らは航海に暗く、戦争も...

  16. 2019日記【243】柿本人麻呂についての私的妄想10 - 久我山散人

    2019日記【243】柿本人麻呂についての私的妄想10

    ◾️大祓のなかのイメージと人麻呂33 大津邊(おほつべ)に居(を)る大船(おほふね)を舳解(へと)き放ち艫解(ともと)き放ちて大海原(おほうなばら)に押し放つ意味は:港に繋がれている大船の綱を解き放ち、大海に押し放つすなわち、「綱を解いて大船が大海原に放たれるように、すべての罪は、払い去られ清められるだろう」海や渓流は、罪を押し流す希求なのでしょう。柿本人麻呂の歌には、海、川のイメージが豊富...

  17. 2019日記【242】柿本人麻呂についての私的妄想9 - 久我山散人

    2019日記【242】柿本人麻呂についての私的妄想9

    ◾️大祓のなかのイメージと人麻呂22 國つ神は高山(たかやま)、短山(ひきやま)の末に上り坐して意味は:(天つ神は天の八重雲を分けて聞き)国つ神=地上の神は高い山、低い山に登って聞く何を聞くかというと、世の中のあらゆる罪をバッサリと切り倒し、清浄化する祝詞を聞くのです。すなわち、「(天の神はさておき)、われら地上の者は、(国つ神のように)高かろうが低かろうが山頂に登り、あらゆる罪が滅せされる...

  18. 2019日記【241】柿本人麻呂についての私的妄想8 - 久我山散人

    2019日記【241】柿本人麻呂についての私的妄想8

    ◾️壬申の乱と近江荒都なかなか表題の、壬申の乱と近江荒都に行き着かないのですが、大祓のなかのイメージについてだけ今は触れておきます。◾️大祓のなかのイメージと人麻呂1 磐根樹根(いわねきね)をも語止(ことや)めて天の磐座(いわくら)放ち・磐根樹根は、自然信仰の対象たる、岩や樹根・天の磐座は、高天原の宮意味は:岩や木の根も口を閉ざし静かになって、高天原の宮を下ったすなわち、「集まった神々も、岩...

  19. 2019日記【240】柿本人麻呂についての私的妄想7 - 久我山散人

    2019日記【240】柿本人麻呂についての私的妄想7

    ◾️壬申の乱と近江荒都さて、ところで柿本人麻呂が巡遊神人だったとして、彼の少年期の才能を妄想してみよう。下部に、「大祓」を書き写してみた。おそらく書き間違えがあると思うが、許されよ。人麻呂はきっと10歳くらいで、この「大祓」をよどみなくとなえることが出来た、と思う。ただとなえるだけではなく、ここに凝縮している語法、リズム、イメージの展開を、我がものにしていた。さらに、舶来の宗教観が混交してい...

  20. 2019日記【239】柿本人麻呂についての私的妄想6 - 久我山散人

    2019日記【239】柿本人麻呂についての私的妄想6

    ◾️壬申の乱と近江荒都滋賀県大津市小野(琵琶湖西岸)に、小野神社があり、柿本人麻呂が若年時、その神社の巡遊神人だったと仮定して:1 琵琶湖の西岸を通る北陸道2 琵琶湖の航路を利用して、小野神の普及に出かけていただろう。また、現在の京都市左京区あたりにあったらしい和邇氏の拠点のひとつを経由して:1 飛鳥北辺の父祖の地、さらに飛鳥の都2 淀川水系で難波へ3 西国街道(現代の山陽道)、山陰道、海路...

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